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インターネットで新聞を読んでいたら中教審報告の記事(読売新聞 3 月 31 日 22:52付け)。「中間報告は、家庭のしつけの重要性を強調。善悪や正邪の区別をわきまえさせるよう、幼い時からしっかりしつけることが必要とした。『キレる』と形容されるように子供が逆上するケースについても、『きちんと叱られた経験がないことが一因』であるとして、子供が悪いことをした場合にはきちんと叱るよう求めている。/特に、父親の参加が不十分であることが、家庭におけ『母子の過度の密着』などの問題を生じさせていると指摘。『父親の影響力を大切にしよう』と求め」たとある。
これは3月25日の「学校は万能ではない」(「文部省協力者会議が報告書」(朝日新聞))と連動しているのだろうけど、家庭に踏み込んだ発言が「子供が悪いことをした場合にはきちんと叱る」である貧しい想像力こそ、子ども観と現状認識の浅さをよく現しているし、問題の原点が、今話題の中心の子どもたちである以前に、私たち大人である可能性を示す(あくまで中間報告やけど)。現状を考える前に、この国の子ども観の生成を『子ども観の近代』(河原和枝著中公新書680円)辺りを読んでをチェックし直してはどうか。「明治政府によって一応の近代化が達成された時代にあって、すでに自分たちの理想や栄達を国家の興隆に重ね合わせて求めることができなくなっていた知識人たちは、〈子ども〉の「無垢」に自らを支える新しい価値を見出し」た。「しかし、『童心』がそうした『自我解放』のイメージを提供し得たのは、実のところ男性に対してだけであった」。
また、「父親の参加が不十分」との指摘はいいとして、今父親をやっている人たちが子どもであった頃、彼らの父親は彼ら以上に企業戦士であった事実を思い出せば、ことの深さは、「父親の影響力を大切にしよう」などというどこか怪しげな匂いのする提言では片付くはずもないやろうね。
『わかれをつげる旅』(依田逸夫作ポプラ社1400円)は、跡を継ぎ医師になれという祖父の要望に反して編集者となった父親の紀夫、この二人を孫であり息子であるつよしの目を通して描く。祖父と父親は仲が悪く、特に紀夫は祖父の話題が出ると機嫌が悪くなるほど。日本の私小説でおなじみの「父と息子」の物語なのだが、祖父のガンから死への展開がその解決を計るストーリーはともかく、視点をつよしにしながら、それはただ眺める存在でしかなく、支点はあくまで祖父と紀夫に置いているのはどういうことだろう。「児童文学」にするとはそういうことではないはずだと思うけど。「父親の影響力を大切にしよう」でしょうか?
 夜行バスの運転手の父さんが好きなシクステンだけど、一人の夜はもっと好き。というのは、「かあさんが家を出て再婚してしまってから、父さんにはシクステンしかいませんでした。だけど、だれかの、たった一つのものでいることは、そんなにかんたんなことではありません」。と、のっけから「父親の影響力を大切にしよう」をぶっとばしてしまうのは『夜行バスにのって』(ウルフ・スタルク作遠藤美紀訳偕成社1200円)。これではいけない!とシクステン、父さんに新しい伴侶を見つけようと画策を始める。なのに、「父さんは、ほかにはだれもいらないよ。おまえがいるからさ」。うーん、やっぱりこれではいけない!
 わたしたちのトビアス・学校へいく』(ボー・スベドベリ作 オースターグレン晴子訳 偕成社1200円)はダウン症の息子を描いた『わたしたちのトビアス』の3作目。ここにあるのはもう、父と息子として出会ったトビアスへの敬愛だけやね。もちろん怪しげな「影響力」なんぞは毛ほどもない。(ひこ・田中
読書人1998/04/17