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いま少年ジャンプで人気のマンガに『ワンピース』(尾田栄一郎 集英社)がある。主人公の少年ルフィは、「富、名声、力のひとつながり(ワンピース)の大秘宝」を得て大海賊王になる夢を持っている。「富、名声、力のひとつながり」、これほど飾りっけもなく堂々と分かりやすい男の野望の提示も近頃珍しく、当然ながらルフィはその夢を叶えるために冒険の旅に出て、悪人どもをなぎ倒していく段取りとなる。 十年どころか百年一日のごとくのストーリーであるかのようなのだが、ちょっと違っているところがある。普通冒険成長物語の主人公は最初は弱く(RPG風に言えば経験値が低く)、経験を積んでたくましくなっていくのやけれど、このルフィ、いきなり滅茶苦茶強い。 彼は第一話で海の秘宝の一つ「ゴムゴムの実」を間違って食べ、ゴム人間になってしまう。ゴムの体だから、殴られてもグニャグニャになるだけ、撃たれても弾は体を通り抜ける。しかも手足をゴムのように伸ばして相手を倒すことができる。不死身なんやね。努力だとか忍耐、心身を鍛えるなどということを彼は何もしない。だからといってモビルスーツに乗り込むわけでなく、ただグニャグニャな体だけが武器なのだ。唯一の弱点が、海賊であるのに「ゴムゴムの実」の副作用で泳げないことという自己矛盾も、このニューヒーローの屈折率の程をよく示している。 『ドラゴンボール』における鍛えられた肉体、『エヴァンゲリオン』のメカの中に埋没する自閉した自我、『ワンピース』はそうした場所から、明るく陽気に退避しようとしているかに見える。 そして、すでに不死身であるルフィにとって、あと必要なものは仲間。というか、ゴム人間がヒーローになりうる時代を生きている子どもにとっても、仲間はもっとも必要なものなのだ。 さて、児童文学。『夜物語』(パウル・ビーヘル 野坂悦子訳 小笠原まき絵 徳間書店 1600円)は、屋根裏の人形の家に住む小人が、一夜の宿を貸した妖精が語る話の先を知りたくて泊め続ける、千夜一夜物語の構造を持った作品。永遠の命を持つ妖精は、自分たちに足りないものが「死」であることに気づき、それを探す旅に出ているのだ。 彼女は、適当な相手をみつけると結婚しようという。というのは、「結婚すると、子どもができるでしょ。そしたら、死ぬこともできるはず」だから。このあっけらかんとした物言いは、私たちの日常を、日頃出来るだけ遠くに置いている「死」までの幅で一気につかまえてしまう。 「結婚」とも「子孫」とも「死」とも関わりのない別世界の住人の視線を通して、外部から私たちは、自身を眺めることができるのやね。一瞬クラッとしてしまった。 一方、『ぼくには しっぽが あったらしい』(なかがわ ちひろ 理論社 1000円)は、「ぼく」自身が「ぼく」の体から外部へと視線を広げていく物語。 おしりの上あたりがときどきムズムズする「ぼく」は、しっぽがあったことを確信し、ならば「じつは ぼくは けもの」であり、虫めがねで観てみると体中に毛が生えており、「人間ってのは、ちょこっと 毛がはえてて かなり ハゲてる ちゅうとはんぱな けものなのだ」と思う。 こうして「ぼく」は、おっかないやつに呼び止められたときゾワゾワとすることから、「うろこだって あったかもしれない」し、「たぶん しょかくも あった」し、「ぼくのなかに 海がある」し、「ぼくは ちきゅうの子 ちきゅうはうちゅの子」だと、観察を深めていく。 それはもちろん、今ここにいる「ぼく」とここにある世界の繋がりを、「ぼく」の体をブツとしてとらえることで明瞭にしていく行為に他ならず、モビルスーツに埋没するでなく、ゴム人間になるでなく、もうひとつ別の生き延び方を示している。
読書人1998/06/19
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