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児童文学には、「子どものために」とばかりに、大人としての自分の主体を放棄してしまうことに不信を抱かなくなる危険な誘惑がある。『日本児童文学の現代へ』(野上暁 パロル舎 1800円)は、戦中少国民としての子どもを鼓舞した児童文学が、その戦後処理を行うに当たって正にそうした危険に足を踏み入れ、自らの責任を問うことなくやり過ごしてしまったことを、明らかにする。「子どもたちの置かれた精神状態を正確にとらえることさえできずに、いたずらに理念だけが民主主義のスローガンとともに戦後現象に追従した」のであり、それは、彼らが「子どもを素材にしながら、常に未来を、明日の夢をつぐむこと」で、自己を問いつめることなく、「主体的な戦後意識」を持つことがなかったからだと。それに対しての批判は1953年、早大童話会の学生たちによる「少年文学宣言」から始まるのだけれど、これは偶然ではなく彼らが戦中に少国民を生きた人々だからなのを、著者は見逃さない。と同時に、この「少年文学宣言」が書かれた時代に自分自身が子どもであった野上は、この宣言が、作品を通して社会変革しようとする発想を含んでいたこともまた批判する。「文学の機能を有 効性の中でとらえるならば、それはそのまま、教化、教育性と結びつかざるを得ない」と。それでも野上は日本の児童文学を否定はしない。むしろ、児童文学はその可能性をまだよく活かしてはいないのだとの想いが、この書物からは立ち上ってくる。『現代へ』たる所以やね。 さて児童文学。 あんたたちのためにおしゃれだってしてやってるのにそれを当たり前だと思っている男の子たち。それにうんざりのピナは去年振られてからずっとフリー。まだ彼のことが忘れられないのかも知れない。そんなとき、ピナの前に冴えない男の子が出現。彼はこう自己紹介するのだ。「シロです。昔ピナさんが飼っていた犬の。今は人間のシロタですけど」(『きみの犬です』令丈ヒロ子 理論社)。ホント?でも彼はピナとシロしか知らないことを知っている。そんなおりピナは別れた彼との仲が再燃しかけ、シロタは飼い犬としてピナに尽くすのだが・・・。物語はごくスタンダードな恋愛物やけど、このシロタが人間なのかそれとも本当に元飼い犬のシロなのかは判らない。そうすることで物語は、シロタ/シロのあいまいな自己を描き、そしてそれはそのまま「あんたたちのためにおしゃれだってしてやってる」ピナのあいまいな自己をなぞっていく。 大きな過ちを犯して死んだため輪廻のサイクルから外されるはずが、神様がたまに行う抽選に当たったぼくは、再挑戦のチャンスを与えられる。自殺を計り死にかけている中学3年生小林真の魂と入れ替わり、修行をすることで過去の記憶もよみがえって来、犯した罪を許されるという『カラフル』(森絵都 理論社 1500円)もまた、「ぼく」が見知らぬ小林真となり、彼の家族やクラスメイトの中で生きるという点で、あいまいな自己の物語といえる。ぼくのホームステイ先の最低限の情報は、担当の天使が与えてくれるが、あとは自分でやりくりしないといけない。そうして、ぼくは小林真の家族の本当の姿、クラスでの小林真の処遇のされ方など、あまり知りたくもない事実を知らされていく。ぼくは小林真のことはしだいに理解していくが、肝心の自分自身の記憶、いったいどんな大きな過ちによって死んだのかはちっとも思いだす事ができない・・・。この物語もまた、最後はごくスタンダードなオチを付けるのやけど、それでもそれらのあいまいな自己は、アプリオリな自己が成長を遂げていく、又はアイデンティテイの確立を必須とするような従来の物語とは何か違 う匂いを漂わせている。
読書人1998/10/16
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