98/11


           
         
         
         
         
         
         
         
     
 14歳の国』(宮沢章夫 白水社 1600円)は、帯に「透明な存在のみかた」とある。これは「見方」なのか「味方」なのか? ひょとして「診方」なのか? そのどれでもあるとも見えるし、人によって、どれと解釈しても構わないとも見える。この非決定と共に、そのコピーの下にある言葉は、「『14歳』はオトナが発見する。生後14年のコドモはオトナによって『14歳』の物語を与えられる」とオトナの中の子ども像(物語)と生身のコドモのズレをあからさまにし、なお続けて、「だから『14歳の国』は、コドモたちがいなくても、ほら、こんなにリアルじゃん」である。「リアルじゃん」の「じゃん」にはどう対処していいかちょっと困ってしまうけれど、生身のコドモたちがいなくてもリアルである「14歳の国」が成立してしまうであろうことへの指摘は、的を射ている。
 物語の設定は、「ある中学校の体育の授業中。生徒が体育で外に出ているあいだに、誰もいない教室で、生徒の持ち物をこっそり調べる教師たち」であり、それぞれが50分(授業一時間分)で演じられるボリュウムで書かれた、一幕目が「やらなきゃいけない仕事があるのに、なんだかいろいろなことを気にしているうちに時間がなくなってしまった」であり、二幕目は「生徒の持ち物から様々なものが見つかる」となる。何が見つかるかといえば「マンガ」「からっぽの鞄」「鏡、ヘアースプレー、リップクリーム・・・」「大量の薬」「刑法第四十一条」「さらに薬」「机の上にカッターで彫られた文字」「菓子類」「サリンジャーの本」「太宰治の本」「デートクラブの電話番号」「傷をつけられた家族の写真」「バモイドオキの文章」「ナイフ」。これはもうコテコテの14歳グッズである。そうすることによって宮沢は、「オトナが発見」しコドモに与える14歳の物語の「リアル」の底を明示する。書物の最後には上演の手引きがあり、それには「高校演劇必勝作戦」とタイトルがつけられているが、『14歳の国』は見事に作戦勝ちである。宮沢は嫌がるだろうが、私はこれを児童文学とみなす。
 一方『“どもという”リアル』(野上暁 パロル舎 1800円)は、「いつの時代も子どもたちは時代の過敏なセンサーとして機能してきたのではないか。それが『子どもというリアル』なのである」とし、全てが書き下ろしではなく八十年代に関しては、およそ一年に一度のペースでその時々の「“子どもという”リアル」を記録したものが収載されているのだが、これは「あくまでスケッチにしかすぎず、その(子どもの・筆者)内面にまでは、なかなか入っていけない。(略)外野から、内閉的だの競争原理が気にくわぬのだの言ってみても、なんともならないことはわかっている。(略)つまりぼくの中にも、こういった情況をどうしたらいいのかという青写真がないのだ」とのスタンスで書かれている。だから例えば、八二年では「子どもたちの遊び仲間を見ていると、その離合集散はすべて外因によって規定される。同じクラスである、同じ習いごとをしている、同じ水泳教室へ行っているといった外的条件ですべてが決まってしまう。だからクラスが変わり通う塾が違ったりすると、バッタリ遊ばなくなってしまう。本人同士の好き嫌いとか、気が合う合わないなどと いうのは二の次で、ともかく同じ時間を共有できることがまず友人の条件となるかのようだ。だから彼等のつき合い方を見ていると、友人に対してこよなくやさしいし、思いやりにあふれている」。八七年の時点なら、「ばらばらだった子どもたちの中に、年令差をも超えてファミコンを軸に仲間の輪が拡がっていった」。「ファミコンか残したもう一つ大きなことは、テレビ画面の中味を自分勝手に変えることができるということである。(略)テレビ神話の一端が明らかにくずれつつある」といったリアルな風景がクリップされているのだ。

読書人1998/11/20