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父親の物語を二つ。まず、『地下脈系』(マーガレット・マーヒー作 青木由紀子訳 岩波書店)。トリスの母親は家を出て行ってしまっており、髪をポニーテールにした元カウンセラーの父親ランダルは、定職を持たず半ば趣味のような庭の設計で生計を立てている。時に父親らしく振る舞おうと、「親子の会話」などをセッテングしたりするが、「カウンセリングは止めて」などとトリスに拒否される始末。トリスが今もっとも気になるのは親しげに通ってくるヴィクトリアの存在。もし彼女が父親と結婚すれば、母親はもう帰ってはこないだろう。彼の唯一の友だちは、地球を救うヒーロー、セルシー・ファイアボーン。頭の中だけに存在し、周りに誰も居ないとき会話する。そんなおしゃべりを耳にし、彼とセルシー・ファイアボーンを共有することになるのは、母親が自殺癖があるため入院しているので「子どもの家」に預けられているウィノーラ。父親オーソンは、再び家族を再生できれば自分もまたまっとうな人間にとしてやり直すとことができるとの幻想を抱きウィノーラを探しだす。彼は、母親の居場所を聞き出すべく、銃でおどしてウィノーラとトリスを拉 致するのだが、やがてそれに疲れ、子どもたちを解放し、ランダルの説得で逮捕され、「刑務所と病院の中間のようなところに入」ることとなる。 ここには似通った両親が配置されている。母親役を降りた母親と、父親役をやりたがっている父親。物語は母親に発言権を与えていないので、二人の父親に焦点が当たるのだけれど、元の家族をつなぎ止めようとするオーソンは敗北し、新たな恋人を持ち、ポニーテールを切って定職につくランダルは息子からも再婚の受け入れを表明される。彼は息子に向かって言うのだ、「いつかは大人にならなきゃならないってことだろうな」と。しかしこの臆面もないセリフと、オーソンの「一からやりなおすために家族が必要なんだ」との訴えは、我が子の前で自らの弱さを平気で露呈してしまう仕草においてなんら変わらない。 『キッドナップ・ツアー』(角田光代作 理論社)は、二ヶ月前から別居している父親が娘のハルを誘拐し、二人で旅をするロード・ノベルなのだが、この父親も我が子の前で自らの弱さを平気で露呈してしまう人物として描かれている。「おとうさんは(略)真剣にならなくちゃいけないときも、ばかみたいなことばかり言っている」し、キャンプ地で火をおこせず落ち込んでいる彼を「私、早く火をつけられるようになるよ、きっとコツがあるんだよ、それを覚えるよ」となぐさめるしかない。そうしてロードしながらハルは、それまで知らなかった父親の姿を見て行くのだけれど、だからといって、感動の心の交流が生まれるわけでもない。深夜二人で海に浮かんでいるときハルは「おとうさんとかおかあさんとか呼べる人がまわりにいたことなんてただの一度もないような、そんな気持ちになった。そう思うことは、決してさびしいことではなく悲しいことでもなく、うっとりするほど気持ちのよいこと」だと気づくのだ。従って、物語は父親に、臆面もなく「いつかは大人にな らなきゃならないってことだろうな」などと言わせるはずもなく、ハルに対して「おれはろくでもない大人だよ」、「だけどおれがろくでもない大人になったのはだれのせいでもない(略)。だから、あんたがろくでもない大人になったとしても、それはあんたのせいだ」と宣言させるのやね。『地下脈系』は『キッドナップ・ツアー』の前で色あせる。 しかし、両者が設定に於いて共に母親を排除しているのは興味深い。そうでもしないと、父と子は描けない、又は描き直せないということなのかもしれへんね。 「そういえば、私は近ごろファミリーレストランのことを考えない」(『キッドナップ・ツアー』)
読書人1998/12/19
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