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十五歳の宇多田ヒカルは、ミリオンになった自作デビューシングル「Automatic」で、恋人からのメールにアクセスした場面を、次のように歌う。「映るcomputer screenの中 チカチカしてる文字 手をあててみると I feel so warm」。SPEEDの、一見新しげに見えながらあくまでも従来の「望まれる女の子像」の枠内で歌う、例えば「過去も今も未来も全部捧げるよ すべて奪ってほしい」(「Precious
Time」作詞・伊秩弘将)と比べれば、それが「今」という時代の十代の生々しい言葉であることは歴然としている。宇多田は過去の価値観を補強するために自分を捧げてはいない。 書物世界で最新のミリオンは、『本当は恐ろしいグリム童話』(桐生操 KKベストセラーズ 1500円+税)。グリム童話とその研究書、パロディ童話、フロイド派からユング派までの精神分析による解析書はこれまでも途切れることなく毎年幾冊も出ている。グリム童話への関心の高さは、一般に流布している七版が、昔話と見えつつある部分において近代的価値観に沿って書き換えられている点にある。主たる改変はセクシュアリティの隠蔽とジェンダーの刷り込みで、現代から見れば残酷とも見える罪に対する罰の部分はさして手を入れられていない。日本で『グリム童話』と呼ばれている『児童と家庭のためのお伽噺』が、近代の児童と家庭に受け入れられるためにまず脚色したのは残酷さではなく、セクシュアリティとジェンダーであること。それは近代の最初の記憶のようなものだ。従ってそれ以降、近代の児童と家庭にとってのグリム童話の問題点は、「残酷」とも見える部分になる。それが削除・改変されることで、グリム童話は近代家族イデオロギーにとって安全であるばかりか、まるでそれが近代以前から成立していたかのように見せる安心な物語となっていく(王子と魔女、善と悪という 勧善懲悪な図式によって、残酷さを旨く払拭したディズニーアニメが現在最も流布しているグリム物であるのはそれ故だ)。 となれば研究書やパロディ童話がグリム童話にアプローチする場合のスタンスは、おおまかに言って二つとなる。「セクシュアリティとジェンダー」と「残酷性」に関する近代的価値観を補強するのか、それともその図式を解きほぐし「今」という時代に晒すのか。 『本当は恐ろしい』は、タイトル自身が、恐ろしいといっているわけだから、グリム童話に残っていた「恐ろしい」部分を改変していった流れと実は表裏一体である。「セクシュアリティとジェンダー」はどうか? 父王との近親相姦(との読みは可能)にある白雪姫は「急速に変わっていった。男との夜を共有している女特有の、何か不潔な匂いを、姫の全身が発散し」、「体が男の愛撫を受けることに慣れ、しだいに愛の技術を学んでい」き、「女は何よりもまず、男に愛されなければ始まらないわ」と母王妃に言い放つ。シンデレラは「人前に出ることを嫌い、宴会や舞踏会にはめったに出席しなかったが、王子には妻として細やかに尽くしてくれ、子どもに対しても温かく良い母だった。控えめで言葉少なだったが、物事を決める節目節目には、自分の意見をきちんと述べる女性だった」となる。こうした赤面するほど陳腐な物言いは、図式を解きほぐすどころか殆ど居直ったかのような過剰さで近代を補強している(なお、巻末に参考文献が多量に記されているが、タイトルから著者名まで、これほ ど校正ミスの多い表は見たことがない)。 その書物の横に、グリム研究家ジャック・ザイプスの最新訳『おとぎ話が神話になるとき』(吉田純子・阿部美春訳 紀伊国屋書店 2600円+税)を置いておこう。そこには、「私の関心事は、ジャンルとしてのおとぎ話が文明化の過程で、規範、価値、ジェンダー、権力についての言説にどのような姿勢で限界を設定するのか」と記されている。そして偶然にも、『本当は恐ろしい』への書評であるかのように見える一文もある。「それは見聞きしたものに近似の複写を作りだして、私たちの精神エネルギーの節約をする」。
読書人1999,03,19
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