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 子どもを巡る話題の一つにその暴力性の噴出、もしくは凶悪化といったものがあるけれど、もちろんそれは「凶悪犯罪」の多発というレベルの話ではなく、「キレル」に象徴されるような、被害者意識を抱えた子どもの暴発に関してだが、香山リカ『インターネット・マザー』(マガジンハウス)は次のように記す。「それはおそらく、基本的な彼らの〃よるべなさ〃に起因しているのだろう。(略)とにかく彼らは自分が自分として生きているということに圧倒的な不確かさを抱えており、学校や家庭といったある種の制度の中での役割だけでは、それは解決されないのだ。『ナイフを持つとほっとする』といった言い方も、そのことを象徴しているだろう」。「学校や家庭」とは、子どもにとって「成長の規範」を示し、同時にそれを保証する制度のことだが、もはやそれだけでは解決できない事態。だからといって、かつての規範を強化させても事態はより悪化すると、香山は指摘する。その通りだろう。制度の劣化は何も子どもを巡る場所でだけ起こっているわけではないからだ 。にもかかわらず、そこだけを強化することは、ますます彼らに「自分が自分として生きているということに圧倒的な不確かさ」を植え付ける。香山は自らが「臨床的にかかわったケースで、一時的にせよ、インターネットやテレビゲームに彼らが自分の居場所を見つける」ことから、そこに何らかのヒントがあるかもしれないと述べる。仮親ならぬ仮自分。私もその方向の迂回路はあると思う。
 さて児童文学。大島真寿『ココナッツ』偕成社)。とびらは寝坊で夏休みのラジオ体操のハンコを未だ一つも得ていない。同級生の健太郎にはそのことでいつもからかわれている。休みも終わりに近づいた日、二人はビルの屋上で釣りをしている老人に出会う。彼が虚空から釣り上げたココナッツを貰ったことから・・・。こうして奇妙なファンタジーが始まるのだが、健太郎の祖母が、お腹が空いたときのためにといつも持たせてくれる「ねんのためおにぎり」というのがある。これはとてもいい発想だ。「ために」ではなく「ねんのために」というスタンスが主人公達を「寄る辺なさ」から回避させている。
 一方ケヴィン・ヘンクスマリーを守りながら』(多賀京子訳/徳間書店)。大学教員であり画家でもある神経質なパパを持つ12歳のファニー。気まぐれなパパは例えば、子犬を飼ってくれるが、その騒がしさに耐えきれずファニーの意向を無視して、よそにあげてしまったこともある。そんなものだから彼女はいつもパパの気持ちを考えている。ラスト近く、ファニーは二度目の飼い犬ディナーがまたパパによってよそへやられたと思いこむ。実はそうではなく、画家として行き詰まっていたパパがディナーが絵のテーマになることを発見し、資料としての写真を撮ってもらうために連れ出しただけなのだが、耐えきれない不安を味わったファニーは、ついに自分の気持ちをパパにぶつける(そのときもパパを傷つけない言葉を探している)。「パパに合わせている自分しかいないみたいな気がする」と。香山の「自分が自分として生きているということに圧倒的な不確かさ」。ここで注目したいのは、ファニーの寄る辺もパパのそれも、犬のディナー(この名前はあからさますぎる ほど象徴的やね)であること。先の言葉を使用すれば、ディナーはこの二人が関係を結ぶための迂回路になっている。が、そこで、パパが反省するだとかの、家族の規範の再構成は生じない。そうではなく、彼らが和解・理解しあえるのは、ファニーの「ときどき、パパのことが、こわくなる」との発言と、それに返してパパの「パパだって、ときどきおまえのことがこわくなるんだよ」なのだ。彼らは互いに対する互いの不安を告白・確認することで不安を解消し、家族としての居場所を見つけることとなる。
 そうした手続きの必要さの前では、かつての規範を強化させることなど、何の意味もないことは、もちろんやね。
読書人1999/09/17