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 森田ゆりの『子どもと暴力』(岩波書店1800円+税)は、「子どもたちにかかわろうとするときに、まずわたしたち大人に必要になることは、『わたしがあなたの年代のころは』と子どもに向かって言うその記憶の不確かさを意識」することだ、「彼らの力にもし私たち大人がなれるとしたら、その第一歩は『明日のために』『将来のために』という教育的配慮をいったん捨てて、今、ここにいる子どもの存在を受け止めることだ。そのとき、私たち自身の子ども時代の、一律ではない記憶の断片からうまれる想像力が必要になる」と述べる。つい忘れがちな視点を指摘されるのはありがたい。
 さて児童文学。
 ジェリー・スピネッリの書物が別々の出版社からほぼ同時に翻訳された。連作短編集い図書カード』(菊島伊久栄訳 偕成社 1300円+税)と、ねり屋』(千葉茂樹訳 理論社 1800円+税)。それはこの作家の描きだす風景が、今の日本の子どものそれと重なって見えるからに違いない。
 『青い図書カード』に収められた作品はどれも主人公の名前をタイトルに持つ。つまりは様々な子どもの様々さを強調しているわけだが、それが決してパターンになっていないところに、スピネッリの視線の確かさがある。「マングース」では、ウィーゼルとマングースと名乗る悪ガキ二人組が登場する。学校も明日も信頼できない彼らは、ペンキで自らの新しい名前を街中、そこかしこにスプレーペンキで記していく。まるでそれが彼らが存在する証であるかのように。が、ある日マングースは青い図書カードを拾ったことがきっかけで図書館に通い始め、書物から得る知識のおもしろさに目覚めていく。そんなマングースを必死で引き戻そうとするウィーゼル。
 一方『ひねり屋』は露骨な設定の物語。ある街で毎年開かれるチャリティ・イベント。それは五千羽のハトを一羽ずつ放し、撃ち落した数が競われるもの。タイトルにあるひねり屋とは、打ち仕損じ傷ついたハトの首をひねる役のことで、十歳になった男の子たちがおおせつかる。だから男の子たちにとって、ひねり屋になることは、一種イニシエーションになっている。物語はパーマー・ラルーの九歳の誕生日から始まる。やっと九歳となれた彼は同い年の悪ガキのメンバーにしてもらえることが嬉しい。リーダーが彼につけたニックネームはスノッツ。鼻くそ野郎。実のところ彼はひねり屋になりたいとは思っていない。けれど、仲間である限りそこから逃れることはできない。そうであるのに、ある日スノッツは窓辺に毎日やってくるハトを部屋に入れ飼い始めてしまう。見つかれば仲間からは外され、またハトも殺されるだろう。そうしてシューティングイベントの日が近づいてくる。ひねり屋になるための訓練の日も。
 「マングース」と『ひねり屋』、どちらもがハンドルネームによって仲間意識を高める子どもの世界を素材としている。これはなにもスピネッリが、ということでもなく、例えばルイス・サッカー穴』幸田敦子訳 講談社 1600円+税)もまた同じ線上で物語が成立している。主人公は、四代続けてツキのない一家の息子スタンリー。もちろん彼も、いわれのない罪で、湖が枯れ砂漠となった場所にある「矯正キャンプ」へ送られる。そこでは、半径と深さが1.5メートルの穴を毎日一つ掘ることが仕事だ。割り当てられた四人部屋で、彼はさっそく、原始人という名を与えられる。同じ部屋の三人も別名しか使用しない。
 こうしたハンドルネームによる仲間意識自体は目新しい素材ではないし、それは本来の自己に対する、もう一つ別の自己として定義し得る。けれど、ハンドルネームこそが物語を動かしている事態は、例えば『ゲド戦記』における真名と名前とはレベルが違い、名前と仮名の、しかも仮名が優先する、「とりあえずの」または「仮どめ」の世界を表象しているといっていいやろうね。この事態はもちろん、子どもたちの風景と重なり合う。

読書人1999/11