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 『ドラゴン・クエスト/エデンの戦士たち』が恒例通り、延期となった。年内発売なる約束は破られたが、「ドラ・クエは必ず発売予定日の延期がある」、という伝説は守られたんやね。そのため、数百万の子どもの予定は見事狂ってしまったこととなる。もし、ちゃんと発売されていれば、彼らは年末年始、お節もお年玉もそっちのけで、『ドラ・クエ』に数十時間をかけた筈だから。
 もちろんそれを見越していたわけではないが、その穴を埋めるかのように、二つの長編ファンタジーの第一作が翻訳出版された。フィリップ・プルマンの『黄金の羅針盤』(大久保寛・訳 新潮社 全三巻)とJ・K・ローリングのリー・ポッターと賢者の石』(松岡佑子訳 静山社 全七巻)。『黄金〜』は、人間が守護精霊と共に生きている世界が舞台。精霊たちは常に可視の状態で、それぞれの主人に沿った動物の姿をしている。科学者で冒険家のアリエス卿のそれはユキヒョウで、学寮長のはワタリガラス、使用人たちのはたいていが犬、というわけだ。が、子どもの間は姿はまだ定まらず、主人公ライラの精霊もガやネコなど時と場合で姿を変える。とくれば別世界を描いたハイ・ファンタジーのようなのだが、彼女が寄宿する寮はオックスフォードにあり、またタタール族がモスクワ大公国を侵略し、サンクト・ペテルブルグへ北上中であり、開巻 早々、アリエス卿が学寮長たちに北欧のオーロラに、ある現象が起こっていることを報告するのはスライド写真によってである。つまり極めて現実臭い背景が採られている。それは背景に止まらない。実はそこはパラレルワールドなのだが、私たちの世界との橋を架けようとするアリエス卿と、断ち切ろうとするコールター夫人、そのどちらが悪とも判別はつかないし、しかもその二人が、孤児だと教えられていたライラの両親であるといった設定なども、二元論的世界観から遠い。二人はライラの親としての側面を見せない。ただそれぞれの正しいと信ずる行動だけに邁進する。ライラは碇シンジと同じ意味で孤児として置かれているのだ。この巻では、別世界から降り注ぎ悪影響を与えているとみられるダストを調べるため、精霊と人間を切り離す実験材料にとコールター夫人に連れ去れた子どもたちを奪還しようとするライラの活躍が描かれ、彼女がアリエス卿を追って別世界への橋を渡るところで終わる。ライラに解っていることはただ一つ。ダストを悪いものだと大人が考えているなら、それはいいものに違いない!
 一方、『ハリー・ポッター〜』は、魔法使いであった両親が、悪の力を得たヴォルデモートによって殺される。が、何故か一緒にいた赤ん坊のハリーに手を出すことができず姿を消す。そのことで魔法使いの世界で彼は生まれながらにしてヒーローなのだ。唯一の親戚である叔父夫妻に育てられるのだが、彼らは魔法使いを嫌っており、ハリーは自分が何者なのかを知らされないどころか、いじめ抜かれる。十一才の誕生日、彼の元に魔法学校から入学許可の通知が。こうして作者は、復活しようとするヴォルデモートと、それを阻止する運命を背負ったハリーの戦いという骨組みを用意する。ここでも、魔法世界は現実世界と切り離されてはいない。物語は主に魔法学校で展開されるのだが、「魔法」なるタームを削除すれば、かなりコテコテの寮生学校物語そのものとなる。寮同士の争い、授業、試験、友情、諍い、好きな教師と嫌いな教師、寮対抗試合、禁止区域への冒険ナドナド。要するに、「ピカピカの一年生」の学校生活一年間を綴っている。
 『黄金〜』と『ハリー〜』。肌合いは全く違うが、描かれるレベルは架空の、つまりは象徴域のそれではなく、日常なのだ。現実の輪郭がシャープである(と信じ込んでいる)とき、ファンタジーはその外部に宿ることができるとしたら、これらの物語の出現は、そうした時代が揺らいでいることを示しているといえるのかもしれない。
【読書人時評】1999/12/17