「記憶」の時代

目黒 強

           
         
         
         
         
         
         
    
    
 『ファイナルファンタジー[』(スクウェア)は、九九年二月に発売され世界で六百万本を超えるセールスを記録したゲーム・ソフトである。興味深いことに、この大作RPG(ロール・プレイング・ゲーム)は「記憶」をめぐる物語であった。物語半ばで、主人公たちは彼らが偶然に「仲間」になったのではないことを知る。ヒロインを除き、彼らは戦争孤児の施設でともに暮らしていた「家族」だったのだ。戦闘に必要なテクノロジーの副作用から、記憶を失っていたのである。そもそも、彼らが戦っていた「魔女イデア」が施設で彼らを育ててくれた養母であったことにすら気がついていなかった…。物語前半で彼らが不安定に見えるのは、記憶がアイデンティティを維持する装置であるからだ。曖昧な記憶という感覚に共感していた私にとって、記憶を回復した後半から物語は精彩を失う。過去の記憶に紐帯された家族関係は運命的ではあるけれど、そうであるが故に予定調和的にすぎるのだ。過去とは無関係な偶発的な出会いを契機とする仲間関係がもつ展開力を失っているのである。曖昧な記憶を主題とすることで現代的不安を描きながら、「家族」という安易な場所に逃避してしまったのは 残念でならない。
 二宮由紀子『キンモクセイをさがしに』(文溪堂)もまた、記憶が曖昧であることを主題としている。「ハリネズミのプルプル」シリーズの第三巻で、あべ弘士が前二作と同様に絵筆をふるっている。簡単にシリーズの概要を紹介しておこう。第一巻『森のサクランボつみ大会』は、プルプルのもとにフルフルがサクランボつみ大会に向けての特訓の誘いにやってくる場面から始まる。プルプルは、自分から言い出したことなのに、フルフルとの約束を忘れてしまっている。プルプルに限らず、この物語世界のハリネズミは「わすれんぼう」なのである。フルフルが約束を忘れなかったのは、手のひらにメモしておいたからであった。フルフルに言われて約束を思い出したプルプルは、仕度をするために、フルフルを外に待たせておく。案の定、プルプルは仕度をしている最中に、フルフルを待たせていることを忘れてしまう…。この物語が傑作なのは、題名で予告されている「サクランボつみ大会」がそれこそ忘れ去られてしまう点にある。二巻『イチジクの木の下で』では、プルプルの父親ブルブルが登場する。この父親がユニークなのだ。自称「旅人」であるブルブルは、散歩の途中で家に帰る道を忘れ 、さらに家に帰るという目的までも忘れてしまう筋金入りの「わすれんぼう」である。ブルブルの屁理屈から、プルプルが父親のかわりに父親のプロポーズ相手を探しに行くのだけれど…。プルプルは、はからずも大冒険をすることになる。かといって、プルプルは冒険を経て成長する訳ではない。怖い目に会ったプルプルは、何をしに来たのかといった些細なことをきれいに忘れてしまうからである。ハリネズミに経験の蓄積(成長)は無縁なのだ。さて、第三巻『キンモクセイをさがしに』。本作が傑出しているのは、小学校を舞台にしただけでも驚きなのに、自同律の問題を扱っているからである。経験が蓄積しないハリネズミにとって、学習活動ほど、疎遠なものはないであろう。本作で語られているように、彼らに「宿題」は不可能なのだから。プルプルたちは授業で「キンモクセイ」について「初めて」学習する。学校に植えられていたのである。学習が進むにつれて、先生も含めて目前の「キンモクセイ」を議論していたことを忘れてしまう。そこで再び、目の前の「キンモクセイ」に気づく。「初めて」見たはずなのに、どこかで見た覚えがするということで意見が一致して、彼らはどこで「キン モクセイ」を見たのかを探しに行ってしまう。驚くべきことに、数分前に見ていた「キンモクセイ」は彼らにとって数分後には別物になっている。「AはAである」という自同律が成立しないのである。彼らは「過去」が「現在」に連続しない世界に生きているのだ。
 一般に、物語は記憶を積み重ねることで成立する。これを「足し算」の原理と呼ぼう。『FF[』において忘却された記憶が「想起」されなければならなかったのは「足し算」の原理にしたがっていたからである。対照的なことに、「プルプル」シリーズは「忘却=引き算」の原理で動いている。「忘却」を武器に記憶が曖昧であることの快楽を描ききった「プルプル」シリーズは、私にとって九九年度最大の収穫かも知れない。
 梨木香歩『りかさん』(偕成社)と那須正幹『ズッコケ三人組のバック・トゥ・ザ・フューチャー』(ポプラ社)は、ともに「過去」を扱うことで「記憶」を主題としている作品だ。ようこが誕生日プレゼントに祖母にねだったのは「リカちゃん人形」なのだが、祖母から贈られた人形は「りかさん」という名前をもつ黒髪の市松人形であった。「りかさん」は不思議な人形で、祖母が書いた取り扱い説明書によれば、寝食を共にするようにとある。そして一週間後、突然にりかさんが喋り始める。「ようこちゃんが私とお食事するようになってから、今日で七日、今夜は七日目の夜ですから。だから、ようこちゃん、私がしゃべりかけても、それほど気味が悪くないでしょう」。ようこは、りかさんを通じて、他の人形たちの想い―人形に封印された人間たちの記憶―に触れていくことになる…。梨木はデヴュー作『西の魔女が死んだ』(楡出版[→小学館]、九四年)から、母と娘の物語を主題にしてきた。祖母と孫娘を組み合わせることで、母と娘の関係のみならず、祖母と母という上の世代の関係を織り込むことに成功していた。本作で活躍する麻子は、ようこにとって父方の祖母に相当する。『西の 魔女が死んだ』で「西の魔女」である祖母から「東の魔女」の孫娘に或る遺贈が行われたように、本作でも祖母から孫娘に「りかさん」が継承されることは見た通りだ。ようこは、雛人形たちの不協和音の謎を解明することで、祖母と両親の関係、麻子夫婦の関係など、家族のもう一つの素顔を垣間見ることになる。しかし、「人形」という「形代」をスクリーンに上映される「記憶」フィルムの数々を観ていると(興味深いことに人形の記憶は映画のように語られる)、より一般的に「記憶の遺贈」こそが本作の主題なのだと思われてくる。九十年代が歴史修正主義の台頭など、記憶の時代であったことを考えるに、「記憶の遺贈」という主題は時代にシンクロしていると言えなくもない。
 さて、『ズッコケ三人組のバック・トゥ・ザ・フューチャー』。ハチベエ・ハカセ・モーちゃんの三人組は、自分たちのあだ名の由来すら覚えていないことに気がつく。というより、それぞれの記憶がくい違っているのだ。そこで三人組は、自分史の作成に取り組む。自分史を辿る中で、ハチベエは幼少期に親しかった一学年上の少女の存在を思い出すのだが、その記憶は何故かしら曖昧であった。少女の謎は、いつしか過去の或る事件に関わってきて、物語は意外な方向に展開を見せる…。実質的には、本作は『ズッコケ結婚相談所』(八六年、ポプラ社)の姉妹編であると言える。『結婚相談所』ではモーちゃんの家庭に隠された過去の真実が語られ、本作ではハチベエの過去の真実がハカセの過去とリンクして語られるからである。実は、両作品は「ズッコケ」シリーズの中でも異質な作品だ。それは、三人組の「過去」を描くことで「記憶」が蓄積されてしまうからである。石井直人が指摘したように、「ズッコケ」は「遍歴物語」の典型であった。三人組は「永遠の六年生」であるが故に「経験」の蓄積(成長)とは疎遠な存在であるからだ。本作は、総じて言えば「忘却」と「抑圧」の物語なのだ が、ここで想起された重い記憶は、次回以降に継承される性格のものである。他の作品のように、作品が新しくなる度に、それまでの作品の記憶を更新することができないのである。「ズッコケ」シリーズは、本作で四〇巻を迎えた。「ズッコケ」の記憶は、作品レヴェルではともかく、現実レヴェルで確実に蓄積されているのである。むしろ、この事実をこそ喜びたい。
 重松清『半パン・デイズ』(講談社)は、現代が記憶の時代であることを痛感させる。帯には著者の名義で「いまや、「少年」はボロ負けである。少年犯罪だの少年法だの、ろくなことにつかわれない。でも、年代に小学生だったぼくは「少年」に憧れていた。(略)ぼくたちみんなの自伝として『半パン・デイズ』を読んでくれたらうれしい」とある。小学校への入学を前に、東京から父親の田舎(おそらく岡山県)に引っ越してきた少年の小学生時代を描いた作品で、著者が言うように時代設定は七十年代である。吉野という少年が登場するのだが、主人公の少年ヒロシとは最初から馬が合わない。吉野のようなガキ大将タイプは苦手なのだ。にもかかわらず、常に意識してしまう微妙な関係を維持している。ヒロシが得意なスポーツがサッカーで、吉野のそれが野球であるところなど、対照的な二人のキャラクターが象徴的に表現されている。二人のライバルな関係を見ていると、自分の少年時代が懐かしく思い起こされる。しかし、これは少なくとも私にとって罠である。八十年代に少年時代を過ごした私が七十年代の少年を「懐かしく」思い起こす感覚とは一体何なのか。重松の前作『エイジ』(朝 日新聞社)は、少年犯罪を題材に現代の少年を描いた作品であった。重松が少年の七十年代と九十年代を意識していることは、帯の文句を見れば明らかである。本書のモチーフは、記憶を持たざる者との記憶の共有であるように思われるのだ。はたして、七十年代の少年の記憶は、「エイジ」のような九十年代の少年に届くものなのだろうか。九十年代の少年たちが七十年代の少年を「懐かしく」思い起こすことがあるのか、彼らに聞いてみたい気がする。