児童文学をプレイしてみて…

目黒 強

           
         
         
         
         
         
         
         
    
    
 「プレイステイション2」が発売された。そのこと自体は喜ばしいことなのだが、小売店を軽視してネット販売を保護したソニーの戦略には一抹の不安を覚える。PS2は、家庭用ゲーム機である以上に、家電のプラットホームとして位置付けられていた。このことは、家庭用ゲーム機の地位が向上したことを必ずしも意味しない。このように位置付けられることで、PS2が家庭用ゲーム機である根拠が脆弱なものになったからである。ゲームソフトの流通ひいてはユーザーのコミュニケーションの場であった小売店を拠点としたローカルな情報網を蔑ろにしたことは、PS2がゲームユーザーを裏切る可能性を示唆している。PS2が家庭用ゲーム機であることを止めたとしても、家電のプラットホームとして存続できることを強調しておきたいのだ。ソニー帝国主義を牽制するためにも、任天堂とセガの役割は重要だ。来年には、任天堂が松下電器と提携して「ドルフィン」という後継機を発売する。セガの「ドリームキャスト」が苦戦を強いられる中、ドルフィンが突破口を拓いてくれることに期待したい。
 さて、PS2の登場によってDVD(デジタル多用途ディスク)による映像表現が注目されがちだが、ゲームの基本がキャラクターと設定にあることは変わらない。キャラが立たずに、「世界観」を構築できていない魅力に乏しい設定の作品は、どんなに美麗な映像表現によって演出されたとしても、駄作でしかないからだ。優れたゲームは、キャラと設定だけで「世界観」を構築してしまうものなのだ(「ポケモン」を見よ)。「世界観」が成立していさえすれば、「物語」(ストーリ)は二次的ですらある。「物語」が主導権を握っていないからこそ、プレイヤーは「世界観」という舞台の上で自前の物語を紡ぐ自由を与えられるのだと言える。今回取り上げるのは、読むというよりは、ゲームのようにプレイすると形容した方が似つかわしい作品たちである。
 上遠野浩平『ブギーポップ・カウントダウン エンブリオ浸蝕』・『ブギーポップ・ウィキッド エンブリ炎生』(電撃文庫、メディアワークス)は、ブギーポップ・シリーズ最新作である。メディアワークス主催の第四回ゲーム小説大賞「大賞」受賞作『ブギーポップは笑わない』(九八年)から数えて『炎生』で九冊、学園を主な舞台とした良質のヤング・アダルト作品を提供したことになる。〇〇年一月から三月までテレビ東京系でアニメ放映され、劇場用実写版が三月に映画公開されるなど、角川書店がお得意のメディア・ミックス路線を展開していたので、御存じの方も多いかも知れない。ところで「ブギーポップ」、直訳すれば「不気味な泡」とは一体何なのか。第一作目では、次のように語られている。「ぼくは自動的なんだよ。周囲に異変を察したときに、宮下藤花から浮かび上がって来るんだ。だから、名を不気味な泡という」(『笑わない』)。宮下藤花は深陽学園という高校の二年生で、自分がブギーポップとして行動していることを知らない。ブギーポップは、藤花の人格の一つが浮かび上がったものであるかのように語られる一方、作中で多重人格が懐疑されているなど、それらし き解釈だけを与えられたまま、シリーズを通して世界の危機に関わっていく。ブギーポップの存在は、深陽学園の女子生徒の間では死神の「噂」として知られているのだが、その得体の知れなさは、実体がないままに解釈だけが増殖していく「噂」に一番近いと言える。ブギーポップの世界観もまた、「噂」が「現実」になったような、空虚でいて、どこかしらリアルな雰囲気がある。
 『浸蝕』と『炎生』は、エンブリオという疑似生命体をめぐる物語である。エンブリオとは「内側で腫れていくもの」という原義の通り、心に眠る可能性という名の「卵」の孵化を促進させる媒体だ。可能性を過剰に実現させてしまうため、個体は「成長」の閾を超えて「進化」してしまうのである。エンブリオそのものはエネルギー体であって、エンブリオ自身が世界に危害を加える訳ではない。自らの声を聞いた者に「感染」するのだ。しかも、感染は結果であって、「主体的」になされたものではない。それは「自動的」なのものである。エンブリオもまた、ブギーポップのように「噂」のような存在なのだ。物語は、偶然にエンブリオの声を聞いて能力が覚醒した「稲妻」と、ある組織からエンブリオの回収を命じられた特殊な能力を持つ「最強」の死闘を中心に展開する。「最強」は最初から既に最強な存在として君臨しているので言うまでもないが、「稲妻」はエンブリオに「進化」させられたのだから、「成長」という段階的過程を踏まずに、進化形態に「適応」しただけだと言える。彼らもまた「主体的」にではなく「自動的」に振舞っているところがある。そもそも、彼らの戦いは、一〇年 前に暗殺された少年のある行動が結果した偶然の産物であった。「稲妻」と「最強」の物語は、本書の大半を占めるにもかかわらず、先の少年の物語の剰余でしかない。物語そのものが「不気味な泡」のような様相を呈しているのだ。ブギーポップ・シリーズの魅力は、現代を「不気味な泡」の世界として形象し得たところにあるのだろう。
 松原秀行『パスワードで恋をして』(青い鳥文庫、講談社)と川北亮司『マリア探偵社 消えたCMタレント』(フォア文庫、理論社)は、ともにミステリーで、キャラと設定が問われる種類の作品だ。『恋をして』は「パソコン通信探偵団事件ノート」八番目の事件で、『パスワードは、ひ・み・つ』(九五年)から数えてシリーズ九冊目の作品である。本作では、電子探偵団の団長であるネロの少女時代の事件と探偵団の一員のまどかの過去が語られる。電子探偵団は、パソコン通信を利用した電子塾に設けられた「教室」の一つで、レイという女性が運営している。ネロという名前はレイが電子探偵団として活動するときの別名である。まどかは、父親との二人暮しで、母親は交通事故で亡くなったと聞かされていた。その母親がまどかの前に現れて…。まどかの母親の挿話は、レイの少女時代の事件に重ねられて語られる。レイが小学六年生の夏休み、その春に転校した親友のちづるの実家に招待される。ちづるが小学一年生のときに家出したピアニストの父親は、その夏になって急に姿を現す。ちづるを引き取りたいと言うのだ。そもそも、ちづるが転校を余儀なくされたのは、この春に母親が病死 したからであった。ちづるを引き取った母親の実家が父親の申し出を断ったことは言うまでもない。このような状況の中、ちづるが日本舞踊を披露する席上で、レイの目前でちづる本人が神隠しにあう事件が起きるのだが…。一方『消えたCMタレント』は、マリア探偵社シリーズの第一作目で、これからシリーズ化されるものだ。元警察官の亀代という女性のもと、亀代の姪で演技力抜群の香に、動物霊に詳しい桂子、パソコンが得意な将道の四年生の三人組が活躍する。「マリア」という名称は「まごころで調査」「リアルに調査」「あかるく調査」の頭文字に由来する。今回の事件は誘拐事件。香の同級生で人気CMタレントの少年が行方不明になり、一億円の身代金を要求する脅迫電話が…。キャラと設定こそがシリーズに一貫性と魅力を与える装置なのだが、両シリーズともに「物語」を重視するためか、「世界観」が伝わってこないのは残念だ。
 荻原規子の「西の善き魔女」シリーズは「世界観」を物語化した作品である。荻原の力量は勾玉三部作(『空色勾玉』『白鳥異伝』『薄紅天女』徳間書店)で実証されているが、本シリーズは勾玉三部作以上に「世界観」が突出した作品であるように思われる。「西の善き魔女」シリーズ本編は、『セラフィールドの少女』(九七年)から『闇の左手』(九九年)までの五巻からなる。今回取り上げる『西の善き魔女外伝1 金の糸紡げば』(中央公論新社)は「外伝」とあるが、『セラフィールドの少女』の前史なので、実質的には第零巻と言える。セラフィールドは女王を戴くグラールという王国の最北端に位置する地方で、本作の主人公フィリエルとルーンが住まう土地である。フィリエルは八歳の女の子。母親は二歳の時に亡くなっており、高名な天文学者である父親は天文台で暮らしているため、お隣さんのホーリー夫妻のもとで育てられていた。そんなある日、痩せ細った男の子がセラフィールドにやって来る。名前もなく、数列ばかりを口にしている奇妙な子どもであった。父親とホーリー夫妻しか住人がいないセラフィールドで生まれ育ったフィリエルにとって、「男の子」は新種の生物に等 しい。男の子は、類い稀なる数学の才能のおかげで、天文台に暮らすことになる。やがて、フィリエルの好奇心は、それ以上の関心に発展していくのだが…。本巻では、フィリエルとルーンの出会いが語られる。「ルーン」という名前の由来は伏せておくが、彼が自分の行為を説明するときに「ぼくは…」と発話できずに、「ルーン(彼)は…」としか言えなかったことは興味深い。与えられた名前を内面化することができて初めて、「ぼくは…」と口にすることができたのである。「ぼく」と発話することができるのは、決して自明のことではなく、おそろしく幸福なことなのだ。シリーズ本編がフィリエルが十五歳の誕生日を迎えた時点から語られているだけに、二人の強固な絆が如何にして築き上げられたものなのかを知るには読んでおきたい。やがて、フィリエルとルーンは世界の果てにまで辿り着くのだから。シリーズ名に「魔女」という言葉が見られることから「魔法」が飛び交う世界を期待されるかも知れないが、一般に期待される「魔法」は登場しない。「魔法」を使わずに「魔女」が統治する社会という「世界観」は秀逸で、ファンタジーというよりはSFに近い。是非お試しあれ。
(『日本児童文学』00/0708)