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高校野球についての過度な報道の騒がしさが神経にこたえるので8月は新聞をとらない。毎朝、なんとなく手持無沙汰である。アルコール中毒の患者が、朝からアルコールに手を出すのと同じような感じで、活字を探し求めるので苦笑してしまう。このところ、ブルーノ・ムナーリの『ナンセンスの機械』(窪田富男訳 筑摩書房)で飢餓感を解消している。ムナーリの数々のしかけ絵本のファンとして二十歳そこそこのムナーリが友人を楽しませようと紙の上で発明した機械と遊ぶことが、まこと、ばかばかしく、おもしろい。いわく、“目覚時計をおとなしくさせる機械”“食いしんぼうの蚊をくやしがらせる機械”…負けじと、“甲子園球場を圧縮して床の間の置き物にする機械”と大きい(いや小さい?)発明にとりかかるとしようか。 1 くまのぬいぐるみが主人公の本2冊 『クマのプーさん』をはじめとして、テディ・ベア(くまのぬいぐるみ)を主人公とした子どもの本は数多い。ぬいぐるみのキャラクターの中でもこれほど子どもたちに時代を超え、国を超えて愛されているのも珍しいだろう。 『ぼくのくまくん クローラ』(ムラースコパーさく・え ちのえいいち・やく 偕成社)は、チェコの絵本である。プラハに住む少年、ペトルが雪の日にひろったくまの人形をフローラと名付け、可愛がる。きれいに洗い、洋服を着せ、帽子をぬい、食事を共にし、少しずつ家族の一員に加わっていく様子が寒色の世界から暖色の家の中に、そして緑の戸外へと、さりげなく素朴に描かれている画面の中で精密に展開されていく。ほっと安らぎを覚える好ましい一冊である。 『くまのテディ・ロビンソン』(ジョーン・G・ロビンソンさく・え 坪井郁美やく 福音館書店)は、デボラ・ロビンソンという女の子の大切にしているぬいぐるみのくまをめぐる七つのエピソードを綴ったいわゆる幼年童話である。「テディ・ロビンソンひとばんそとでねる」「入院する」「おまつりにいく」「インデアンになる」「まいごになる」「…とくまのブローチ」「おそろしいめにあう」のタイトルでもわかるように、女の子との日常生活の中にある心踊ることや事件をテディの視点から語っていく。語り口が自然でなめらかであるので、テディの世界にすっといれられてしまい、小さい出来事を共にすることができる。 テディが折にふれて歌をうたう場面や病院で出会ったぬいぐるみのうまと話をしたりするところなどは、『クマのプーさん』の系列に入る作品のように見えるが、テディ独自の世界をつくりあげるわけではなく、デボラと同次元の世界に住み、その世界は、作品で垣間見える母親の手(作者)によってしっかりと掌握されているので、本質的には全く別種のものであろう。あくまで日常の論理にとどまっていてその中でのほのぼのとした“お話”集である。 2 クジラは野菜畑で生まれたって? ものの起源を語る話は、神話をはじめとして、いつも想像力を刺激してやまないものである。ここに、全くデタラメで、しかも、美しく、かつ、諷刺のきいた物語がある。フクロウ、クジラ、北極グマ、カメ、ミツバチ、ネコ、ウサギ、ゾウがこの世に出現したさまを語ったテッド・ヒューズの『クジラがクジラになったわけ』(河野一郎訳 篠原勝之絵 旺文社ジュニア図書館)である。「世界ができたてのまっくらで」「空気もキラキラ光っていました。何しろ、まだだれも使っていないまっさらの空気だったからです。」そんな中でどれも似たかっこうをしていた動物がそれぞれの特徴をもつようになってくるさまを誇張したユーモアにのせて語りはじめる。 フクロウは、自分が夜でも目が見えることに気付くと、夜目の見えない小鳥たちをペテンにかけてその命を奪う。絶望した小鳥たちは死を選ぼうとしてフクロウの教えた死のくらやみを見るために目を明けてみると、そこに燃えるような太陽がのぼってくる。だまされたことに気付いたことりたちは、みんなで、むれをなしてフクロウに襲いかかる。そんなわけで今もフクロウは夜になるとこわごわでてきてえさあさりをしながら、ほそぼそと生きている。 クジラは、神さまの野菜畑でクジラ草として成長していた。ところがその目玉のある真っ黒な植物は大きくなりすぎて神さまの家をぺしゃんこにこわしてしまう。困った神様は、他の動物に手伝ってもらい海にほうりこんでしまう。小さくなったら帰って来ていいといって頭のてっぺんに穴を明けてくれ、その穴から水けむりが出ると身体が知人で小さくなるようにしてくれる。しかし息を吹き出すのは疲れるので、海の底で一休み、昼寝をするともとのもくあみ。今もこの延びたり縮んだりを繰り返している。 キップリングの『なぜなぜ物語』Just So Storiesとは、発想も物語性も文体も全く違ったおもしろさがあり、知的な遊びの精神を満喫させてくれる。ネズミたいじの専門家として人間の家に通嘱したネコは、「夜あけになると、バイオリンをカラマツの木にぶらさげ、大急ぎで農場へとんで帰り、一晩中ネズミどもを相手に大かつやくしていたようなふりをしました。がつがつミルクをなめると、暖炉のそばに長々と寝そべり、ニヤニヤ薄笑いを浮かべて眠ってしまうのです。」(123頁)というあたり、作者の人生観がチラリと窺われて深読みできる楽しみも味わえる。神や悪魔の書きっぷりにも興味をひかれるものがあり、イギリスの現代詩人であるヒューズの世界観にふれた思いがする。 3 夏休みのありよう 欧米の子どもの本の中に、さあ、これから休暇がはじまるという発端から、冒険に入っていく物語の一群がある。そこには、必要悪としての学校生活からきれいさっぱりはまれて、存分に楽しむぞ、そういう期待があふれている。義務としてのプール行きや日記や課題が全くない。自由である。一日何をしてもよい。ということの保障は、何ものにもかえがたい子どもを成長させる要因であるという合意がそこにはある。 こうした合意を背景にして『アリスティードの夏休み』(R・ティバー作 八木田宣子 訳 Q・ブレイク画 あかね書房)を読む。 アリスティードというパリに住む男の子は、夏休みでおばあさんと二人、海辺の小さい貸別荘で暮らしている。ある日、プラスチックのマットレスに乗って海に浮かんでいるうちにねむってしまい、沖に出てイギリスの海岸に流れつく。疲れで倒れてしまったアリスティードが目を覚ますと、銃を突きつけられている。庭でキャンプをしていた子どもたちに捕虜にされる。少ししゃべれる英語を使ってお互いのことを知っていく。一団の子どもたちは夏休みの終りを自分たちだけでテントで暮らしており、となりの家の少年たちと戦争状態にあり、紙ぶくろに砂をつめて一戦を交える夜がくる。たとえ遊びにしろ、戦争には反対のアリスティードはひそかに、全員の着物と砂バクダンを処分してしまう。時間がきて両方のテントを飛び出した子どもたちは、右往左往、あまりの騒ぎに出てきた父親によって真相が知れ、フランスに帰りつこうとマットで海に乗り出したアリスティードはつれ戻される。次の日、目が覚めるとおばあさんと両親が到着して、飛行機でフランスに帰る。 子どもの自己中心性と遊びの世界をうまく描いていて、気楽に読み流しながらも、大人の描かれ方のたくみさや徹底した反戦教育の成果のおかしさの中にある大上段にふりかざさない平和主義の主張などが確実に伝わってくる。 『ヴィーチャと学校友だち』で知られるソビエトのニコライ・ノーソフも休暇物語を書いている。ピオネールのキャンプ場での集団生活から二篇、別荘での友人と二人くらしから二篇、あと一篇は大晦日のもみの木まつりから採ったものを集めた『ぼくのともだちミーシカ』(清水陽子訳 童心社)である。 五篇とも休暇中のくらしを、おもしろおかしく語っていく。ぼくとミーシカという迷コンビのいくところ、失敗ばかり、ドジばかり。“畑づくり一等賞”をとろうと夜中に働いたのに、他のコンビの畑をたがやしてしまっていたり、別荘から子犬をつれて帰る汽車の中で苦労してこっそりトランクに入れておくのに、そのトランクを他の人にもっていかれてしまったり…ミーシカという小心にして大胆な性格と、詩を愛し、もみの木を選び出したら気にいるものがあるまで探し抜くという徹底したがんこな性格がふしぎに入りまじった友人と、悠々閑々としてコンスタントな性格をもちながら、ここというところでは、あたふたする“ぼく”との二人の対話に絶妙の呼吸がある。一応、「そのうち、夏休みもおわり。学校がはじまった。うれしかった。ふたりとも勉強がとてもすきだし、もう、学校にいきたくてたまらなかったんだ。」(104頁)という教育的配慮の一文も入ってはいるが、休日の中で友情を育てていく二人にノーソフの子どもを見つめる確かな眼を感じる。 4 バレエ物語、職業小説の古典 ノエル・ストレトフェイールドの『バレエ・シューズ』(中村妙子訳 すぐ書房)が翻訳された。二つ の大戦の間にあって1930年代は、イギリス児童文学史の上で新しいジャンルをいろいろと拓いた時代であったが、その中にあってストレトフィールドが手がけたのは、“職業小説”と名付けられているものである。バレエや映画、スケート、サーカスなどのようにひとつの道に入ってきびしい訓練を受け、その中で成長していく子ども像を描いた作品である。こうした作品群の最初のものが1936年に出た『バレエ・シューズ』であった。もっとも30年代に新しかった作品も、今日では、古色蒼然として、昔の物語という感じがする。 化石のコレクションで有名なマシュー・ブラウン教授は、足のケガから採集の旅をあきらめ、あちこち航海している。その途上で孤児となった赤ちゃんを次々と引き取り、甥の娘シルヴィアとその保母ナナの待っている家につれて帰る。教授は長期の旅に出てしまい、ポーリーン、ペトロヴァ、ポージーという三人の子どもを育てるために、シルヴィアは家を下宿とする。三人はフォッシル姉妹と名のり、協力して歴史に名を残そうと誓いをたてる。三人三様ながら、少しずつ才能を伸ばし、まず、ポーリーンがオーディションをうけて劇場と契約することができる。(子どもが働くための市会の許可のとり方など、具体的に出ていてそのくわしさがいい。)少しでもお金が入ることを楽しみに、あまりむいていないペトロヴァも懸命に努力する。天性の踊り手ポージーは早く大きくなって職業人になりたくてうずうずしている。一家は、お金がなくなり家を得る。ポーリーンはハリウッド行きを誘われ、ポージーはチェコのバレエ学校に入りたいといい、飛行機と自動車の好きなペトロヴァだけが残ることになったところへ教授が帰ってくる。「あたしたち、めいめい、まるでべつべつのことをするわけねえ !」「まるでべつべつの場所でね。」「世の中の女の子が、もしか、あたしたちのひとりにならなきゃならないんだったら、あたしたち三人の誰に一番なりたいと思うかしら?」(410頁)と幕が下りる。 作者は、旅回りの劇団員であったこともあり、はなやかな世界を内から描いていく。少女小説によくあるバレリーナの物語は、主役となるところで終わるのに比し、職業としてどんな地味な訓練のつみ重ねであるか、また、そこで働く少女が、舞台衣装のはなやかさにもかかわらず、影ではオーディションを受けに行く服をつくるお金の工面にいかに苦心しているか、訳のついた人のうらで、万一のために代役として待機している人がいかに才能をもてあましているか、等々、ライトの影の部分をしっかり書き込んでいる。また、舞台やバレエで子どもの占める場が確立していることもよく了解され、背景の古さにもかかわらず、人物描写(特にわき役としての大人像と細部の具体的な説明が生き生きとしているため、古典として残っている作品ではある。 5 ハンス・バウマンの新しい作品 ハンス・バウマンの最新作は、これまでも多くの作家や画家の筆にとりあげられてきたギリシャの神話・伝説の世界から、“イカロスの墜落”を題材とした『イーカロスの翼』(関楠生訳 岩波書店)である。人間が飛ぶということは、神に対する挑戦。人間のおごりであり、また、自由への道・解放でもあるので、イカロス少年の飛翔と墜落のイメージは常に新しいテーマとして浮かび上がる。 アテーナイの町に住んでいるイーカロスは、いとこのカロスと、父ダイダロスに教育をうけている。ダイダロスは巨匠とよばれ、発明家であって、誰も創りえなかったものを次々と研究によって生み出していく。神々がまだ人間の間に生きている時代にあって、ダイダロスの発明は、神を冒涜しかねない危険なものとなっていく。カロスを死に至らしめたという罪にとわれ、ダイダロスはイーカロスを連れて、クレータに逃げる。クレータでは王のために働くが、力を持ちすぎてゆく。王は息子を殺された復習のため、毎年、アテーナイの七人の少年と七人の少女をいけにえにしてきたが、この年、王子テーセウスがその中に志願してやってくる。王の娘、アリアドネーとダイダロスの手びきで、怪物ミーノータウロスのいる迷宮に入った王子は、首尾よく退治に成功し、静観する。クレータ王の弱さを目のあたりに見たダイダロスは権力欲、支配欲にとりつかれ、クレータに残るが、王子を手びきしたことが発覚し、自らの発明したおりにとらわれの身となる。そこで、翼を発明したダイダロスによって二人は牢より飛び立つが、高くのぼりすぎたイーカロスは、海に落ちていく。 ケンタウロス、タロス、ミーノータウロスの存在のような神話的幻想の世界と、父との葛藤、友情のあれこれ、権力争うのみにくさなどの現実の世界とが交錯して、不思議な魅力をかもしだしている。イーカロスの墜落を、あらゆるものからの自由ととらえる作者の視点は独自のものではないにしても、少年の魂の美しさを謳いあげたものとして余韻が残る。子どもと大人の対立、死ぬべき運命の人間、営々として繰り返される争いごと…、それを越えて海に飛びこんでいくイーカロスの永遠の生命が、ここにも結晶されている。
テキストファイル化中島晴美
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