男たちの読む子どもの本を

金原瑞人

           
         
         
         
         
         
         
    
 「馬力の朝飯に奥さんの作る薄味料理ではとても間に合わず ヤマサ醤油をご飯にかけて 美味しくいただいています ひどいわあんまりだわとおっしゃられても その奥さんの味付けはかしずく衒いといって 味の素から湧いてきたプライドですから どんな風に考えてもぼくとかかわりないので・・・・」
 のっけから型破りな詩で驚いた方も多いだろうが、ねじめ正一の詩集『下駄履き寸劇』から「ヤマサ醤油」。
 ねじめ正一は、『キリンの洗濯』の高階杞一とともに、僕の大好きな現代詩人のひとりで、光村図書の中学校の教科書に彼の短編小説が載ったのを知って、ずいぶんうれしかった。
 このねじめ正一が書いた、詩についてのエッセイ集『「ことば」を生きるーー私の日本語修業』(講談社現代新書、94年2月、以下出版年は94年)の経験、奥さんに勧められてふんどしを締め便器にまたがっての朗読会・・・・・。
 一見、無鉄砲で無茶にみえるねじめ正一の鋭いセンスと言葉に対する熱い想いがひしひしと伝わってくるユーモラスなエッセイで、ぜひ中高生に読んでもらって、感想をききたいと思う。中高校の図書館の方、要チェック!
 小説、戯曲、詩・・・・と、文学はあれこれあるが、どれかひとつだけといわれたら、僕は迷わず詩をとる。どんなに素晴らしい小説や戯曲を読んでも、詩を一ページ一ページめくるときのあのときめきにまさるものはない・・・・と思うのに、なぜか現代の日本は詩にとっていささかさびしい状況にあるようだ(アメリカではおそらくこの五百年間ではじめてといっていいほどの詩のブームなのだが)。
 「日本児童文学」の書評コーナーから少しばかりはみでるのは覚悟の上で、もう一冊、辻井喬の、やはり詩についてのエッセイ『詩が生まれるときーー私の現代詩入門』(講談社現代新書、3月)を紹介しておきたい。辻井喬も僕の好きな詩人のひとりだが、いい詩を作るだけでなく、詩について語らせても、すこぶるうまい。これは慶応大学での講演をもとに書かれたもので、詩とはなにか、詩を産む力とはどこから生まれるのか・・・・といったテーマについて、わかりやすい例をあげながら解説した格好の現代詩入門書である。
 たとえば、ふたつの「飛行機雲」という詩の比較。

「飛行機雲
みたされぬあこがれに
せい一杯な子供の凱歌」

で始まる谷川俊太郎の作品と並べて語られるのは、

「白い坂道が空まで続いていた
ゆらゆらかげろうが あの子を包む
誰も気づかず ただひとり」

というユーミンの歌。
 さらに、啄木と俵万智の短歌の比較。
 そういった比較、あるいは様々な現代詩についての分析、そういったものから説得力ある詩についての話が展開する。
「詩人には、詩を生み出す力ーーおそらく、音韻あるいは音の響きに対する感受性、それから想像力、そして象徴を操作できる表現力、こういったものが必要なのではないかと私は考えています。
 今挙げた三つの中でも、想像力については、現代は、かなり条件の悪い時代であるといえるでしょう。
科学技術の発達により、映像的表現が進んだため、こちらの中で想像力が刺激されてイマジネーションがふくらんでいく前に、レディーメイドのパターンを押しつけられてしまうからです・・・・」といった指摘は、詩に限らない。小説にも、もちろん児童文学にもいえることだと思う。作者は、この本の最後をサミュエル・ベケットの言葉で結んでいる。
「想像力は死んだ。想像せよ」
 大学生や一般の人を対象に行われた講演だから、中学生にはちょっと難しいが、高校生あたりから読めると思う。高校の図書館の方、要チェック!
 それからこの場を借りて、中学の学校図書館の方にお願いをひとつ。
<たしかに『万葉』『古今』、あるいは明治、大正の詩も大切ですが、ぜひぜひ、現代詩の棚を作って下さい。生徒がみてちょっとのぞいてみたくなるような演出でもしてくださると幸いです。生徒のうちの何人かは、きっとその棚で新しい宇宙を、新しい自分の世界を発見すると思います。なにをいれていいかわからないというなら、思潮社の現代詩文庫あたりがいいかもしれません(でも、ねじめ正一と高階杞一の詩集は別格でぜひ・・・・いや、別格といえば石原吉郎も伊藤比呂美も辻井喬も宋左近も・・・・ええい、とにかく、ご一考を!)

 詩の次は伝記である。子どもは一般に伝記が好きである・・・・というと、そんなことはないという反論があるかもしれないのでいいかえよう・・・・僕は小学校の頃、あまり本を読まなかったがノンフィクションと伝記は好きだった。戦後、偉人の伝記ではなく市井の人々の記録をということが叫ばれた時期があった。それはそれでいい。が、だからといって、いわゆる偉人といわれる人々の伝記がなくなっては悲しい・・・・し、まずなくなることはないだろう。その証拠に、続々と新しい伝記が出ている。偉人伝、伝記というと八九年に出た本で木原武一の『大人のための偉人伝』(新潮社)がある。これはシュワイツァー、リンカーン、二宮尊徳など十人の生涯が多くの資料をもとに、書かれている。なかでも強く印象に残ったのが、ヘレン・ケラーだ。朝日新聞のヤングアダルト招待席で紹介したので、そこのところをそのまま引用しておこう。
 「天才でも神童でもなく、一生涯を一日で生きる昆虫のように過ごした、記憶力と集中力の人ヘレン・ケラーを扱った章はとくに、人間の可能性を考えるうえで興味深い。彼女は『奇跡の人』というよりは、人間そのものが奇跡的な可能性をひめていることを教えてくれる存在なのだ、というのが作者の主張である」
 それから伝記で面白かったのは何年か前になるが、四方田犬彦の『魯迅』。ブロンズ新社から出ているこの新しい伝記シリーズのなかでは、出色の一冊だと思う。
 僕は今でもなぜか伝記が好きらしい。だから偕成社から出た『アンデルセンーー夢をさがしあてた詩人』の改訂版(初版は八○年、ルーマ・ゴッデン著、山崎時彦・中川昭栄共訳、4月)と『ホーキングーー宇宙論のスーパー・ヒーロー』(キティ・ファーガスン著、栗原一郎訳、4月)はとても楽しく読ませてもらった。
 『アンデルセン』の作者は、『人形の家』『クリスマスのおにんぎょう』のルーマ・ゴッデン。これは物語作家アンデルセンへの、物語作家ゴッデンのラブコールといってもいい作品で、いたるところにゴッデンの物語観が顔を出すのも面白い。
 たとえば、「子どもこそもっとも鋭い審査員です。彼らの心からわき出る、もっとお話をきかせてちょうだい、という叫びこそ、あらゆる批評に対する答えといえるでしょう」といった言葉など、アンデルセンの作品に対してもいえると同時にゴッデンの作品に対してもいえるはず。アンデルセンのファンにも、ゴッデンのファンにも楽しい一冊。
 が、僕にとっては『ホーキング』のほうがさらに面白かった(もちろん、単なる好みの問題)。車椅子の天才物理学者、ケンブリッジの名物教授、世界的なスター、世界中で数人くらいしか完璧に理解した人はいないんじゃないかといわれながらベストセラーになった『ホーキング、宇宙を語る』の作者・・・・と、彼を語るキャッチフレーズを並べるときりがないが、このスティーヴン・ホーキングの半生を伝記にしようとすると、神経細胞がじょじょに崩壊していく奇病にかかって立つこともできなくなっていくなかで、妻の助けをかりながら独自の物理理論を構築していく様をドラマチックに描きたくなるのが人情というものだろう。しかし、この伝記はそうではない。そのあたりはじつに淡々と書かれているうえに、この本のおよそ半分がホーキングの物理理論の説明になっているのだ。相対性理論と量子力学という、マクロとミクロを大胆に結合させ、「今世紀の終わりには、いわゆる『究極の理論』が発見され、自分のような理論物理学者にのこされる仕事は、ほとんどなくなるだろう」と断言したホーキングの理論、これがとてもわかりやすく説明されている。
 ホーキングは物理学者である。なら、彼を世界的に有名にした彼の物理理論を抜きにして伝記は書けない・・・・のかどうかはわからないが、作者のキティ・ファーガスンは半生を半分、理論の説明を半分でこの伝記をしあげた。これがこの本のすごいところだ。最近出た伝記のなかでは出色といっていい。とくに中高生、あるいは大学の理数系が好きな学生には絶対にお勧め。とくに男子が喜んで手にすると思う。

 さて、男子という言葉がでてくるとよく考えるのだが、いわゆる「子どもの本」というジャンルは女の子向けのようにみえてしまう本が多い気がするのは僕だけだろうか。もちろん、女の子はこんな本が好きで、男の子はこんな本が好き・・・・といった決めつけをするつもりはないのだが、大まかにいって、男の子が手を出すのがためたわれるような本が「子どもの本」には多いと思う。その理由としては、母親から子どもに語ってきかせるという昔ながらの伝統が、子どもの本には依然として強く残っているということ、また子どもの本の編集者に女性が圧倒的に多いということなどが考えられる。しかしそろそろこれも検討されていいのではないか。父親が「おっ、面白そうだな」といって手にとりたくなるようなものが少ないのはさびしいと思うのだ。
 そんな意味で、シド・フライシュマンの『ゆうれいは魔術師』(渡邉了介訳、ピーター・シス絵、あかね書房、3月)が翻訳されたのはうれしい。『身がわり王子と大どろぼう』(偕成社)でニューベリー賞を受賞したフライシュマンの本は、とにかく、「へえ、面白そうだな!」と手に取らせる雰囲気があるし、最後まで一気に読ませる力を持っている。悪らつな判事につかまって父親の遺産をだましとられそうになるタッチ少年が、幽霊の魔術師の力を借りて危機を脱出する冒険物語は無条件に楽しい。
 童話屋という子どもの本の書店に勤めている菅原さんからの手紙のなかに「おもしろかったです・・・・この手のはなしの本って、あんまりないので新鮮でした。男の子が手だしてくれそうな本ってないので、これはうってつけ! です」と書かれているのをみて、思わずうなずいてしまった。そう、「男の子が手をだしてくれそうな本」、これがもっとほしい。
 さて、次はウルフ・スタルクの『シロクマたちのダンス』(菱木晃子訳、堀川理万子絵、佑学社、3月)。これは一月から三月にかけて出たフィクションのなかでイチオシの一冊!
 じつはこの三か月、バーリー・ドハティの二回目のカーネギー賞受賞作である力作『ディア・ノーバディ』(中川千尋訳、新潮社、3月)、相変わらずいい味をだしているパトリシア・マクラクランの『おじいちゃんのカメラ』(掛川恭子訳、偕成社、3月)、発想と構成の巧みさでぐいぐい不思議な世界に引き込んでいく一風変わったファンタジーであるデニス・ハムリーの『ノウサギの選択』(宮下嶺夫訳、評論社、3月)など、フィクション部門では、紹介したい作品がずいぶん出たのだが、この『シロクマたちのダンス』
のまえにすべて影が薄くなってしまった。ひさびさに、読み終わって、「ううーん、こいつはすごいや」とうなった一冊だ。
 主人公の少年ラッセは友だちといっしょにデパートの時計売り場で、手あたりしだいに目ざまし時計を二時十五分にあわせる。ところが手間取ってしまい、ミッキーマウスの時計を合わせている最中に二十個くらいの時計がいっせいに鳴りはじめた。ラッセは時計をかかえたまま逃げ出すが、万引きと間違えられて店員に追いかけられ、大あわてで逃げまどううちに革ジャンの男の客につかまってしまった。なんと、男の横には母さんが立っている。革ジャンの男につかまったラッセは母さんに助けを求めるが、母さんは知らん顔。ラッセは男の脂肪がたっぷりのった腹にかみついて一難をのがれる。が、クリスマスイブの日、親戚たちが集まっているところで、母さんが父さん以外の男とつきあっていることがドラマチックにばれてしまう。そのうえ、母さんのおなかにいる子どもが父さんの子ではないことも。そして離婚・・・・。
 とまあ、状況はとことん厳しく重苦しい・・・・んだけど、時計合わせのエピソードでわかるように、全体に流れるユーモアと意表をつくストーリー展開がそれをうまく救っている。これだけ深刻な状況をユーモラスに、そしてちょっと切なく描き切るスタルクの筆力には心から感服してしまった。
 「物事をよく理解しないこと。これはとうさんとぼくのとくいわざだ」というラッセ少年が最後の最後にたどりついた結論・・・・これも泣かせる。それから、プレスリーをハーモニカで吹くのが得意なラッセの父さんが、これまたいい味を出している・・・・し、堀川理万子の表紙がまたまたいい味を出している。
 こんな本がどんどん出るようになれば、世の男たちもきっと子どもの本に興味を持つようになる、いや、子どもの本をどんどん読むようになるはずだ。
 沈滞、低迷といわれ続けている「子どもの本」の活性化をはかるには、たしかに子どもたちが積極的に参加できるような状況を作ることが必要だ・・・・が、そのまえに世の男どもを巻き込んでいってはどうだろう。そもそも、こんなに楽しい世界から男を閉め出しておくのはかわいそうだし・・・・。
 さて、番外編として最近のスーパー・ファミコンから、『真・女神転生2』と『ファイナル・ファンタジー6』の感想を書きたかったけど、まだ最後までいっていないので、今回はパス。
     日本児童文学1994.07
       テキストファイル化小久保 美香