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さて、94年4月〜6月(6月の中旬に出ているくせに7月刊の奥付のあるものも含む)で印象に残ったものを。 まずヤングアダルト向けのものとしては、中島らもの『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』(朝日文芸文庫、7月)とフランク・コンロイの『マンハッタン物語』(西田佳子訳、講談社文庫、5月)が抜群に面白かった。 『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』は89年に単行本で出ていたのだが、今回、朝日新聞社から文庫の形で出たので取り上げることにした。『今夜、すべてのバーで』『ガダラの豚』などの異色作で日本の出版界にゆさぶりをかけてきた異才(奇人といううわさもあるが)中島らもの青春記である。 超受験校として知られている天下の難校に入学して見事に落ちこぼれ、修学旅行でパイナップルを肴に酔いつぶれたあげく、体育の教師に殴られながら介抱された夜から18年間、酒を飲みつづけた作者の中学、高校、浪人、大学時代の記録は「さんざんな」ものである。「さんざんに」面白く、抱腹絶倒(CとAmとFとGしかひけない作者と、Fがひける作者をみて尊敬してしまった友人とふたりで結成したロックバンドの顛末記など・・・・・・)でありながら「さんざんに」ぶっとんでいて、五里霧中(シュロの繊維とバナナの繊維と鳥の餌に入っている麻の実でのバッドトリップなど)・・・・・・でありながら・・・・・・「さんざんに」身につまされてしまう(「あの落ちこぼれている感じというのは一種言いようのないもので、最初は1、2時間授業をさぼったくらいの、ほんの微々たるズレなのである、それが何か雪ダルマ式にズレが大きくなっていって」・・・・・・というあたり、二浪経験者の僕にはとてもよくわかりすぎて、悲しかった)。 中島らもの妙にはずれたおかしみ、その裏に厳然と存在する得体の知れない自我、それがこのエッセイ集にはっきりと表れている。たとえば次の部分。 「十代の僕は一種凶暴なほどに自分自身を憎んでいた。そしてそれ以上に、自分がその一隅を占めているところの『世界』そのものを憎み、呪っていた。世界は醜悪で愚かで腐臭を放っていて、それは僕の存在とうりふたつだった。自分も世界もその腐った体で抱き合ったままで『ぶっつぶれてしまえ』というのが、僕に出来る唯一の意思表示であり願望であった。」 この作品の原点があるような気さえする。 原点といえば、『遠い世界からきたCOO』という素晴らしいヤングアダルト向けの小説を書いてくれた影山民夫のエッセイ集『普通の生活』(朝日文芸文庫、7月)にも、作者の原点があるような気がする。これは84年に出版されたもので、最近やはり朝日文芸文庫から出た。うれしい。世界各地をめぐって、若い感性にぶつかったものを書き留めた極上のエッセイ集である。ユーモア、ペーソス、含蓄、どれもあふれるほどにあふれているが、作者が暗い部分をしっかり核にすえているのがよくわかる。とくにギターを抱えてニューヨークに一歩踏み出したときのことを書いた「ギブソンJ45」は短いながら、『真夜中のカウボーイ』と彷彿させる逸品だと思う。 日本のヤングアダルト向けの作品といえば、村上龍の『69』、山田詠美の『蝶々の纏足』『放送後の音符』、芦原すなおの『青春のデンデケデケデケ』、『遠い海からきたCOO』など、どれもお勧めだが、『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』、それから番外編として『普通の生活』をお忘れなく。 さてその次の『マンハッタン物語』は、ピアノ少年の話。舞台は第二次世界対戦が終わって間もないマンハッタン。これは一人の少年が安アパートで古ぼけたピアノの鍵盤をたたくうちに音の世界に引き込まれていき、ピアニストとして、また作曲家として成功するまでを描いた、いわゆる典型的なアメリカン・サクセス・ストーリー・・・・・・なんだけど、通りいっぺんのハラハラワクワク物とはひと味もふた味も違う、こくのある長編小説。 まず、半地下のアパートの部屋から窓の鉄格子越しに、歩道を見ている少年の視線がとらえる様々な足、そして、その足足足が刻むリズム、それを飽きずにながめている少年・・・・・・冒頭のシーンがまず読者を、ぐいっと引きつける。 読み始めてすぐに、ぐぐっという手ごたえを感じる(釣りでいうところの「あたり」のある)作品は、残念ながら、あまりない。『マンハッタン物語』の、「小説ってのは、こういうふうに始めるんだ!」といわんばかりの冒頭には、恐れ入るばかりだ。 そして次に登場するのが、身長180センチ、体重130キロのタクシーの運転手。ビールを飲み、主人公のクロード少年を相手にぐちを並べ、ウイスキーをあおる、この運転手、クロードの父親ではない。母親である。この母親、章を追ううちに、共産主義にかぶれ、地下組織に協力するようになり、ついに当局の手入れを受けて、タクシーの免許停止というはめにおちいるのだが、役所に出頭して、相手の受付係をほうり投げてしまう。 この巨体でシニカルな母親と、感性と音楽性にめぐまれ意志の強いクロード少年のふたりの暮らしにからんでくるのが、一癖も二癖もあるいわくありげな黒人ボイラーマンのアルと、無償でクロードに援助を申し出る楽器屋の店主、暗い過去を持つユダヤ人のヴァイスフェルト・・・・・・とくれば、面白くないはずがない。確かにクロードの人生は、「オー、ラッキーマン!」といいたくなるほど、うまく次々に障害をクリアしていくが、それでも要所要所をしっかり締めているのが作者の偉いところ。エンタテイメントとしては文句無し。 映画化決定ということだが、当然だろう。薄っぺらい(厚さじゃなくて、内容の)エンタテイメントが氾濫する現在、ほっとさせる一冊。とくに上巻のほうは、音楽家を目指すクロードの成長物語としてもよくできている。 というわけで、高校生以上に薦めたい本をふたつ紹介して、次は小学校高学年から中学生向けのものに移ろう。 ひとつはモニカ・ヒューズの『闇に追われて』(小池直子訳、すぐ書房、5月)、もうひとつはゲイリー・ポールセンの『ひとりぼっちの不時着』(西田醇子訳、くもん出版、7月)。 『闇に追われて』の作者はモニカ・ヒューズ。モニカ・ヒューズはアメリカでは、主にヤングアダルト向けのSF小説の作家として知られているが、彼女のSFはテーマも舞台設定もあまりに無邪気で、僕はあまり好きではない。というわけで、代表作といわれる何作かを原書で読んだあとモニカ・ヒューズとは、長いことご無沙汰していたのだが、『闇に追われて』を読んで、驚いた。ずいぶん手ごたえのある作品だったのだ。 主人公は高校生のマイク。マイクはトヨタの四輪駆動車で、冷え冷えとした11月の空のもとを走っていき、キャンピング用品と猟銃を持って車をおりると、テントを張る。そこから場面は一転して、悪夢のような病院の中へ。それから再び、森林の中のテントへ・・・・・・そんなふうにして、白血病に犯された自分の挑戦として、鹿狩りにやってきたマイクの物語が編み上げられていく。 マイクが病魔に襲われ、やがて両親がひた隠しにしようとするその病院の名前を知り、一時絶望にかられたのち、親に内緒で一人きりの鹿狩りに出かけるまでのいきさつと、二十四口径のライフルを抱えて森林を歩きまわって獲物を追いかけていく過程とがないまぜになって、物語は進んでいく。 先ほど述べた「ギブソンJ45」で、影山民夫が自分のアンデンティティとしてのギターにしがみついてニューヨークをさまよったように、『真夜中のカウボーイ』のジョン・ヴォルトが子牛皮のトランクにしがみついてニューヨークをさまよったように、マイクはライフルにしがみついて森の中をさまよう・・・・・・その姿がとても印象的だった。 それから『ひとりぼっちの不時着』のほうは、これもやはりカナダが舞台で、広大な森林の湖に不時着したセスナに乗っていた少年が主人公。操縦士は心臓麻痺で死んでしまい、少年の生きるための戦いが始まる。いわゆるサバイバル物だが、魚のつかまえかた、火の起こしかた、住居の作りかたなどを経験で覚えていく過程がひとつひとつ、リアルに描かれていて面白かった。 この手の小説は細部のリアリティと一種のシュミレーション感覚がバランスよくブレンドされているかどうかで出来の善し悪しが決まるが、『ひとりぼっちの不時着』はそのへんをなんとなくクリアしているし、最後近くで少年が、湖に浮かびあがってきたセスナ機の積荷を取りにいくところなんかは、なかなかの迫力で、ピーター・ベンチリーの『ディープ』をふと連想してしまった。 さて、このごろとても気になっているが、いわゆる小出版社・・・・・・というわけで、今回このあたりのことを、絵本を中心に書いてみたい。 現在、アメリカでは小出版社が続々とできていて、小部数ながらも大出版社では出せないユニークな作品を出すようになってきている。これはアメリカの出版社が合併、吸収を重ねて大型化していったため、あまり部数の見込めない本が自由に出せなくなり、その合間を縫うようにして、初版部数二千〜五千くらいのものを出す小出版社が増えてきたせいらしい。つまり、マス・メディアではなく、細かいところに目を向けたミニ・メディアとしての本が見直されつつあるといってもいいかもしれない。 なにしろ、『ファイナル・ファンタジーY』なんか、発売に先立ってのプレゼントの数が五千本、一本の値段が普通の児童書のおよそ十倍。コミック、ファミコン、ゲームの氾濫する現在、よく考えてみれば、初版部数せいぜい五千の児童書というのはもうマス・メディアではないのかもしれない。とまあ、その話はさておき、日本の児童文学界でも最近いくつか活発に動いている小出版社がある。 たとえば昨年10月、有志といえ素人が集まって作った温羅(うら)書房が、長谷川集平の処女作である『はせがわくんきらいや』を復刊した。そして復刊第一刷の三千部はたちまち売り切れ、第二刷に取りかかったという。そのうえ、近く長谷川集平の絵本がここから出る予定だという。うれしい。 それから一昨年の9月、九月館(集文社)が『山ねこせんちょう』を復刻した。これは昭和22年から翌年にわたって「こどもペン」に連載されたもので、柴野民三(文)と茂田井武(絵)によるナンセンス絵本。これがすごい。何でも飲みこんでしまう山ねこせんちょうの大冒険、ブリティッシュ・ナンセンスの大家エドワード・リアの絵本にもひけをとらない。ううむ、日本にもこんな本があったとは! それから『テンボ』『カーリンの時間』『ポポ うみへいく』など、地味ながら味わい深絵本をコンスタントに出しているアスラン書房の活躍も、これからがまた楽しみだ(ぼくもここから『カラスのイタチ』という絵本の翻訳を出していて、ちょっとほめづらいので、長くは書かないけど、これからますます期待できます)。 そして最後に、創立7年目になる架空社。この存在は大きい。『ぼくのともだちおつきさま』『ファンタスマゴリア』『やまのディスコ』『やまのかいしゃ』と、次々に傑作、怪作を出しながら、ついに来年には出版点数百点を目指すという勢い。社長ひとり、営業ひとり、アルバイトひとりの、この出版社のどこに、これだけのエネルギーがあるかわからないが、とにかく日本の絵本界を面白くしてくれている出版社であることは確かだ。 この架空社、今年はとくに力が入っているように思っているのはぼくだけだろうか。まず1月に井上直久の画集『イバラード博物誌』が出た。どんな画風かといわれると困るのだが、ウィーン幻想+マグリット+オリエント趣味ってところかなあ・・・・・・(気になる方はとにかく手に取ってみてください)。美しい、というか・・・・・・不思議、というか・・・・・・あるいは、不気味というか・・・・・・その印象をひとりひとりたずねたくなるような、不可解な魅力に満ちた一冊。宮崎駿がほれた、というのもよくわかる。 それから4月、ついに『きんぎょのおつかい』がでた! まず、冒頭から。 「太郎さんは駿河台の菊雄さんのところへ、おつかいをやらなければならない御用があるのですが、女中の梅やがご病気なので、どうしたらいいのだろうかと考えていました。そうすると弟の二郎さんが、『兄さん、きんしょをおつかいにやりましょう』といいました。太郎さんはよろこびまして、『そうしましょう、赤をやりましょう』といいますと、『僕の白も一緒にやりましょう。それから千代ちゃんのぶちも一緒にやっていいでしょう』二郎さんのこういった言葉に千代ちゃんも賛成したものですから、三びきのきんぎょはいよいよおつかいに行くことになりました」(ほとんどの漢字にはルビつき) 井上ひさしが選んだ福武文庫の児童文学のアンソロジーにものっていたので、知っている方も多いと思うが、そう、文章は与謝野晶子。 この三びきが新宿からお茶の水まで電車に乗って、おつかいにいって帰ってくるまでのお話、なんとも、かわいく、ほほえましく、ナンセンスで、つくづく、おかしい。 それからなんといっても、高部晴市の絵がいい! この人は、まっこと、すごさを感じさせない凄い絵を描く。満点どころか、五百点をあげたくなってしまう。レトロな感覚と、味のある色、おかしみに満ちた単純な線(隠し味の猫にも注意)・・・・・・絵本って、すごいよなと思わずつぶやいてしまった。それにしても、どうやって、こんなタッチの絵ができあがったのだろう。版画のようにもみえるけど、どうも違うようだし、それに所々にあるかすれや、バックの微妙なムラムラの部分は、いったい、なんなんだ? これはお勧めです! 今年の上半期に出たミステリーでは『シンプル・プラン』(番外で『ピンク・ウォッカ・ブルース』)、エンタテイメントでは『マンハッタン物語』、児童書では『シロクマたちのダンス』、絵本では『きんぎょのおつかい』、このあたりは絶対にはずせない。 さて、ゲームのほうでは、『ファイナル・ファンタジーY』は長いだけで退屈、『女神転生2』は急いで作ったせいか前作とくらべて深み欠けに単純、どちらも前のほうが良かった。このところあまり面白いゲームにぶるからないので、『ぷよぷよ』にチャレンジしながら、また『シャイニング・ホース』か『ファイアー・エンブレム』でもやろうかしらと考えているところ。ゲーセンのほうでは、なんといっても『ヴァーチャル・ファイター』がすごい。あの迫力に、子供の本は勝てるか? (ま、勝たなくてもいいと思うけど) さて、また次回。皆様お元気で。 日本児童文学94年10月 テキストファイル化佐久間恭子 |
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