楽しい本との出会いを願って

金原瑞人

 さて、94年7月〜10月上旬で印象に残ったものを。
 まずなにより驚いたのは、ベストチョイスのシリーズを中止してしまった福武書店から、生きのいいヤングアダルト向けの小説が2本立て続けに出版されたことだ。ひとつはエリザベス・バーグの『ケイティの夏』(島田絵海訳・7月)で、もうひとつはタビサ・キングの『心のとびら』(亀井よし子訳・9月)。全く性格の異なった作品ながら、両方ともに読みごたえのあるいい小説だった。『ケイティの夏』の主人公は12歳の少女ケイティ。母をなくし、父と姉との3人暮らしだ。父親はいわゆる昔気質の人間で、なにかあるとすぐに娘をひっぱたく。そしてことあるごとに父に反発する18歳の姉。姉は、父親が転勤するというのをきいて、ついに家出をする。とまあ、ストーリーだけを書くとよくある物語なのだが、ケイティと姉の会話、またケイティと2歳上の親友シェリレーヌとの会話、それからとくにケイティの気持ちの細やかな動きがじつにうまく描かれている。女の子を主人公にした作品の紹介はあまりうまくないので、これ以上は書かないが、新鮮で心にしみこんでくる小説だった。
 『心のとびら』は一転して、暴力とセックスとドラッグの蔓延する現代アメリカが舞台。ふたりの高校生がバスケットを核に結びついていく。ひとりはディーニー。頭はスキンヘッド。鼻にピアスをしていて、そこから鎖が5本、耳のピアスについた5つの輪にのびている。膝には入れ墨。母親の内縁の夫であるトニーから性的な虐待を受けている。そして自分も同級生と寝て、その代わりにマリファナとピルをせしめている。いわゆる典型的な不良少女だが、小柄ながらバスケットに天才的な才能を持っている。一方、ディーニーにひかれていくのは男子バスケットチームのキャプテン、サム。これ以下では無理というほど低い成績でなんとかダブらずに高校まで上がってきた学業の面では典型的な落ちこぼれだが、巨体と抜群の勘の良さでチームを引っ張っていく高校の名物男。タバコもマリファナも酒もやらない、品行方正な超硬派。『スラムダンク』の赤木剛憲といった役どころ。この水と油ほども性格と環境の異なったふたりがたがいを意識し始め、反発し、ぶつかりあいながら、ひとつの目的に向かって進んでいく過程がスピーディに描かれていく。なにより印象的なのは、たたみかけるような迫力だ。とくに下巻、ディーニーがコカインをやっていたトニーになぐられ、ピアスの鎖が顔にめりこみ、左半面が崩れるという衝撃的な事件が起こってからの展開は見事というほかない。作者タビサ・キングはホラーの帝王スティーヴン・キングの細君だが、『心のとびら』はキングの『キャリー』や『スタンド・バイ・ミー』に匹敵するほどの気迫に満ちている。
 じつは『心のとびら』を紹介しようかなと思ったとき、ちょっと暴力描写やセックス描写がきついかな、という考えが頭をよぎったのだが、作品をその部分部分でもって評価したり、切り捨てたりするべきではないし、それに考えてみれば、ぼくは中学校の頃、映画では『あの胸にもう一度』や『バーバレラ』なんかを観ていたし、本では『ロリータ』や『キャンデー』なんかを読んでいた。中高生なんてのは、そんなものだ。オーヴァー・サーティーズの老婆心は不燃ゴミといっしょに捨ててしまったほうがいい。「いいぞ!」と『心のとびら』を勧めたい。
 それから扶桑社から出たロバート・コーミア『チョコレート・ウォー』の続編で『果てしなき反抗/続チョコレート・ウォー』(北澤和彦訳・9月)、これも見逃せない。『チョコレート・ウォー』をひっさげて、コーミアがヤングアダルト小説の世界に登場したのが74年。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』やスーザン・ヒントンの『アウトサイダー』がアメリカの青春小説を大きく変えたように、『チョコレート・ウォー』もそれ以降の流れを変えてしまった。たとえば「ホーンブック」というアメリカで出ている児童書の書評雑誌の94年、5・6月号にパティ・キャンベルが載せているエッセイはマイケル・キャドナムの『コーリング・ホーム』、エリカ・ターマーの『フェア・ゲーム』、クリス・リンチの『アイスマン』の新刊3冊(どれも未訳)を中心に扱っているのだが、これらは全て犯罪がらみの作品ばかりだ。『コーリング・ホーム』は廃屋で、ふとしたことから親友を殺してしまい、親友のふりをしてその両親に電話する青年が主人公だし、『フェア・ゲーム』は暴行がらみ、『アイスマン』ではネクロフィリア、つまり屍姦が大きなモチーフとして使われている。もちろん、どの作品も重苦しい雰囲気がつきまとう。このエッセイの作者は次のようにまとめている。「こういった強烈な題材が、ヤングアダルト向けのすぐれた作品の核となる素材として用いられていることが大して問題とされずに受け入れられていることは、単に、アメリカ社会の恐怖や暴力に対する免疫が強くなってきた証拠なのかもしれない。あるいは、われわれが、ペーパーバックホラー小説のなかにはずっとむごたらしいものがあるということを知っているからなのかもしれない。しかし、次のように考えることもできるのではないだろうか。つまり、このジャンルや批評家たちが成熟した結果、作品の一部や一要素だけを取り上げてその作品を云々することがなくなり、シリアスなヤングアダルト小説が一般向けの小説と同じように、作品全体の質という点を中心に置いて判断されるようになったのだ、と」
 もちろんキャドナムが3冊を紹介しながら、もっとも意識しているのは『チョコレート・ウォー』であり、事実、このエッセイの中に何度かコーミアの名前が出てくるし、『コーリング・ホーム』を評して、「『チョコレート・ウォー』で鮮烈なデビューをとげたロバート・コーミア以降、青春小説というジャンルにおいて、これほど才能あふれる新人の登場ははじめてだろう」といっている。戦後のヤングアダルト小説を概観するとき、コーミアの名前を避けて通ることはできない。『チョコレート・ウォー』はアメリカの青春小説の大きな流れを作ったといっても過言ではない(このあたりのことや、『チョコレート・ウォー』に関するエピソードなどは、『果てしなき反抗』の後書きに書いたので、もし興味があったら、読んでみてください)。
 さて、その続編だが、学生の秘密組織のリーダーであるアーチーが卒業をひかえ、今後の組織運営を考えているところに、部下に反乱の動きが出てくる。そして前編で徹底的に痛めつけられぼろぼろになったジェリーがもどってくる。
「ジェリー・ルノーがモニュメントにもどってきた日、レイ・バニスターはギロチンをつくりはじめた」という冒頭の文章から始まるこの作品、一瞬のゆるみもない緊張感が全体を貫いている。まさにリアリスト、コーミアらしい「厳しい」小説である。
 さて、前回、この書評で小出版社のことを書いたが、その続きを。アメリカで小出版社が増えてきていることはもう紹介したが、そのひとつの流れとして、地域に根ざした出版物が増えていることがあげられる。たとえばニューメキシコ州にあるレッド・クレーンという出版社は、その地方の料理、その地方の作家の作品といったものを中心に発行している。また、モンタナ大学ではモンタナ州に関する文献やモンタナ州出身の作家たちの文章を集めた、枕になるくらい分厚いアンソロジーを出版している。日本ではまだそういう傾向はあまり強くないが、次第に増えてきている。そのなかで今回は、けやき出版の『地図の遊び方』(今尾恵介著・8月)を紹介してみよう。
 けやき出版は立川にある出版社で多摩地区に根ざした本を中心に出している。たとえば『多摩百年のあゆみ』『玉川上水』といった歴史物から、都立東村山西高校2年7組編集による『今どきの高校生』(都立5校の生徒にアンケートした報告書)、立川女子高校山岳部の記録という副題がついている『ヒマラヤすばらしき教室』といった地域の若者たちが作った物までさまざま。こういった出版社がもっとたくさんできて、各々が連絡を取り合えるようになれば、日本の出版界もますます楽しいものになっていくと思うのだが。
 さて、『地図の遊び方』。これは多摩地区とは関係がないのだが、とにかく面白い。中高生から一般まで、地図や地理に関心のある人もない人も、絶対に楽しめる一冊である。一面海ばっかりで、浮かんだ岩を全部合わせても5ミリ四方に満たない「銭州(ぜにす)」の地形図や、「この空域を侵犯した航空機は警告なしに銃撃されることがあります」という注記のあるアメリカ国防衛省作成の「北方領土」の地図といった変り種の地図の話、南大塚はなぜ大塚の北にあるのか、品川駅から南に向かっての最初の駅がなぜ北品川駅なのか、といった謎の解明、地名変更や駅名改称への不満(「岩手県岩手郡岩手町」なんて町があったりする)、様々な地図の遊び方(封筒にしてしまうというのもある)、さらに自分流の地図の作り方の指導など、どこから読んでも楽しい。地図はいつも「お勉強」といっしょという印象しかなかったぼくには、目から鱗の一冊だった。
 地方出版社のついでに、これも前回紹介した温羅(うら)書房の新刊を。『はせがわくんきらいや』を復刊しようと、岡山県の児童書専門店を中心にできたこの出版社、まあ、一年に一冊のペースかなと思っていたところ、二冊目は意外と早かった。同じく長谷川集平の『とんぼとり』(7月)がそれ。こちらも復刊といえば復刊だが、親本そのままではなく、リメイク版である。四角い顔の九州男児が「さて、どげんしますか。羽根ばむしりますか」とか「とったもんば、ぜったいはなさん。それが男たい」というところなど、すごくいい味がでている。どちらの絵本もすきだが、個人的な好みでいわせてもらえば、ぼくは『はせがわくんきらいや』よりも『とんぼとり』をとる。
 というわけで、地方出版社の本を紹介し終えて、考えたのだが、現在、日本でこういった小出版社がいくつかあって、それぞれにユニークな活動を続けている。が、なんといっても宣伝力と営業力がない。子どもの本の雑誌などがバックアップしていってほしいと思う。子どもの本の活性化のためにも。
 ついでに書いておくと、佑学社が倒産とのこと。もともとコンピュータ関係の本のウェイトが重い出版社で、倒産の原因は児童書の売れ行きが悪かったせいではないと思うが、詳しいことはわからない。今年も『シロクマたちのダンス』や『セリョージャ、放浪のロシア』など、小出版社ながらよく健闘していただけに残念。それに今までに出た本も手に入らなくなる可能性もある。こんなことなら、何冊か余分に買っておけばよかったと思う。
 次は詩集を。少年詩のほうは本誌で他の方が精力的に紹介して下さっているので、ぼくのほうは一般向けの詩集からヤングアダルト向けにも勧めたいものを紹介しよう。
 本誌の7月号で詳しく書いたのでもう繰り返さないが、現代詩はとても魅力的だ。もっと詩の読者が増えてほしい。
 というわけで、今回は思想社から出た宮尾節子の『かぐや姫の開封』(10月)を紹介したい。どんな詩集ですか、とたずねられると、困る。「決意」と「震え」が添い寝をしているような詩です、と答えてとぼけるのもいいが、魚と同じでたべてみればすぐにわかる。詩には解説も説明もいらない。とにかく、ひとつ詩を読んでみよう。「私を渡る」という詩を。
「夢の果てに/葦原の向こうは霧/濃い霧がかかって/時折そこに/幽霊が立つ//北の旅は/葦原までと/夢のなかでも/決めていて/入ってしまった/葦原に気づくと/心臓が鳴る/こわい葉群を掻き分け/ぬかるむ地面に/足を取られながら/目覚めへ急いで/引き返す//葦原のなかには/だから/おびただしい/足跡がある/戸惑い ためらい/引き返す/乱れた足跡が/何年分もの/心のあとが/ついている//でも/目覚める前に/必ず振り返るので/刈り取られることのないまま/拡がる夢の葦原/その先の憧れにかかる/霧の橋よ//いつかきっと強い/南風が吹いて/夢の葦原を越える/その先の霧の橋を渡る//その時/信じなければ/消えてしまう/さびしい幽霊橋を/その時/信じなければ/落ちてしまう/おそろしい自分の橋を/君に会いたい一心で渡る/見たことのない私が渡る/見たことのない私を渡る
//足のない私が/霧のなかを渡る/葦原の一斉に指さす/君に向かって渡る、渡る、/私を渡る」(紙面の都合で、詰めてしまったが、時間のある方は行分けに直して読んでほしい。「/」は改行で、「//」は一行あけ)
 久々に、手ごたえのある詩集に会えた。あとがきの次の一節も好きだ。
 「あなたに手にとってもらえて嬉しいと思う。
 そんないちばん最初の喜びの中に感謝と感激をこめて、いつまでも私の詩は立っていたい」
 さて、番外編としてパソコン、ファミコンのゲーム紹介といきたいが、「SPA!」でも取り上げていたように、今年のゲーム界はいたってつまらない。こんなことでは、近々、児童書にくわれてしまうのではないかと心配だ(笑)というわけで、その代わりに、一枚だけCDの紹介を。今年の話題はなんといっても竹内まりやの『Impressions』だった。30代、40代の固定層だけでなく中高生までを巻き込んだこのブーム、親子が同じCDを聴くという珍しい現象を引き起こした(児童書にもこんなのが現れないかな)。
 そのほかTVのドラマで使われたせいもあり、ユーミン、trfといったところがもてはやされ、またSMAPも根強い人気を集めている。が、このところ中高生、大学生のあいだで、ひそかなブームになっているのがスピッツ。最近出た6枚目のアルバム『空の飛び方』(ポリドール・POCH-1392)が抜群にいい。30代にも訴えかける力を十分に持っている。ヤングアダルト向けの本に興味のある方もぜひ。期待を裏切らない出来です。
 というわけで、一年間なんとか続いた『日本児童文学』の「月番時評」、ぼくの担当はこれで終わり。おつき合い、ありがとうございました。皆様がこれからも楽しい本にたくさん出会えますように!
日本児童文学95.01
テキストファイル化山口雅子