翻訳時評


普遍的なものと歴史的なもの、または変わる社会と変わらない楽しみ
−98年6月〜11月刊行の翻訳児童文学を対象に−
芹沢 清実

           
         
         
         
         
         
         
         
         
     
 1.
 戦争を扱った作品の刊行は、夏に集中する。読書感想文を書きやすくするためなのだろうか、などと考えたりする。
 邪心のある大人読者は、アリソン・レスリー・ゴールド『もうひとつの『アンネの日記』』(さくまゆみこ訳、講談社)のタイトルを見て「まだアンネなのか…」という気分になったのだが、じつのところこの本は読んでよかった。
 アンネ・フランクの幼なじみハンナ・ホスラーへのインタビューによるもので、ともに過ごした少女時代のアンネの回顧をまじえて、ハンナ自身の体験を語る。とりわけ収容所でのふたりの思いがけない出会いの部分では、悲劇的な結末を知っていても「奇蹟」ということばを信じたくなるような友情のドラマが胸を打つ。
 ここで語られているのは、多くの生命が公然と奪われたホロコーストから生き残るとは、どういう体験なのかということだ。政治的・経済的な背景を含めた、ちょっとした運・不運の分かれ目。家族と一緒にいられるかどうかをはじめ、食糧や医療、衛生状態といった心身の健康を保つための条件などなど。ぎりぎりのところにおかれながら「生きる」ということをささえる内実は何なのか、について考えさせられる。
 戦争をめぐる文学は、ある意味では場所も時間も刻印されない「生と死」というきわめて普遍的な問題に読み手をみちびくことが多い。それとは別の語り口は、地域や民族をめぐる固有の体験から、歴史における具体的なものにわたしたちの注意を向ける。日米開戦時のハワイ日系人少年が主人公の、グレアム・ソールズベリー『その時ぼくはパールハーバーにいた』(さくまゆみこ訳、徳間書店)が、そういう作品だ。
 戦争の時代は扱っていないが、ロレンス・イェップ『ぼくは黄金の国へ渡った』(夏目道子訳、徳間書店)もまた、米国におけるアジア系移民の歴史に取材している。こちらは西部開拓のための大陸横断鉄道敷設に動員された中国人の物語である。SFでデビューした著者らしく、<苦難の歴史>というよりは<異文化との遭遇>に主眼をおいた活劇タッチが魅力的だ。ひょんなことから祖国を脱出したお坊っちゃんが、あこがれの「自由の国」における同胞の実態に直面する。祖国の近代化・民主化へむけた大人たちの願いにもふれながら、後進地域からの収奪が近代化にとって不可避だった歴史の暗部について考えさせる。

 2.
 一方では平等を前提にした競争と能力主義がありながら、他方ではけっして平等ではない弱者への抑圧がある。そのどちらも本質として持つらしい「近代」あるいは「資本主義」というシステムは、じつにふしぎだと、このごろ思う。そんなふうに歴史的なふりかえり方をしてしまうのは、このシステムが転換期をむかえているからなのだろう。
 たとえば今、小学校での「学級崩壊」が話題になっている。ひとりの教師が多数の子どもを相手にする「一斉授業」というのは、近代学校の基本的な風景だった。それが成立しがたくなるところに、日本社会が直面している変動の根の深さが感じとれる。
 南北戦争より前の米国が舞台のキャサリン・パターソン『北極星を目ざして』(岡本浜江訳、偕成社)には、整然と秩序だった教室のようすが次のように描かれている。

 <二十名足らずの生徒が、男の子は左、 女の子は右手にすわっている。(中略)  全員がたった一人の支配者の油断ない目に見すえられている。先生は女王のようだった。きれいなドレスとか王冠はつけていないけれど、まさしく支配権をにぎっている。声はひくいけれど、すべての言葉が教室のすみずみまではっきりと聞こえた。>

 今となってはなつかしく感動をさそう光景である。この女教師は、前作『ワーキング・ガール』のヒロインの後の姿。後日譚にあたる本書の主人公は、身寄りがなく救貧農場に育ち、数奇な運命をたどることになる、少年ジップだ。
 この「教室という王国」で、ジップは読み書き能力とともに物語を読むという快楽を知る。これらは、それまでの彼を支えてきた関係(精神に障害をもつ老人とのあいだに築いた絆)とはまた異なった局面で、彼の人生を根底から変える原動力となる。とりわけ、よるべない少年が自らを守るための唯一の武器となったのは「人権」という観念で、それを守るための諸手段を提供してくれたのも「教室という王国」の女王たる教師だった。
 ここでは学校は、人々の人生にとって輝かしい役割を果たしている。「近代」が人々に対して目にみえるかたちで恩恵をほどこす場は、学校教育とともに医療である。アーミッシュの村に育った少女の物語、アイビーン・ワイマン『カレジの決断』(瓜生知寿子訳、偕成社)では、伝統的な共同体に対する普遍的な価値として、男女に平等な機会を与える学校教育とともに、病院での医療が扱われている。ここでは、個々人の運命に疑念をさしはさまない「自然な」人生と、不安や孤独にさらされながらも「自由な」選択が可能であるような人生が対置される。
 自由や平等といった人権思想、科学主義などが人々に恩恵をもたらした反面、商業主義や効率主義もまた「近代」の産物である。後者はけっきょく、強者による支配をみちびきだす。子どもの世界の価値観もまた、その影響をまぬがれることはない。
 ユーモラスな学園ドラマ、ジェリー・スピネッリ『ヒーローなんてぶっとばせ』(菊島伊久栄訳、偕成社)の主人公は、まさに支配的な価値観を体現した少年である。フットボールのヒーローで、ブランドもののスニーカーにこだわる彼の素朴な物質至上主義、男権主義は、しかし、まったく異なる世界観をもつクラスメイト(菜食主義の平和愛好家で、女の子にまじってチアリーダーをつとめたりもする)にくつがえされてしまう。効率主義と商業主義のもとで生じる弱者(ここではとくに病んだ老人)の問題や環境問題は、児童文学ではよく見かけるテーマだが、この作品の独自性はそうした問題を<カッコイイとは、どういうことか>というスタイルで提起し、図式的でない語り口をとっていることだ。
 不況といい老人問題といい、この物語で扱われているような価値観の転換の必要性は、大人か子どもかを問わず現代日本にも共通する問題だ。より現状と子どもの問題関心に即して、かつ鋭く描いた作品が、日本の創作にも出てきてほしい。

 3.
 さて、エンタテインメントとりわけミステリーに目を転じてみたい。刊行点数が多いわりに論評されることの少ないジャンルなので、本稿担当を機会にさまざまなものに目をとおしてみた。
 インド児童文学者・イラストレーター協会会員による『トラの歯のネックレス』(鈴木千歳編、ぬぷん児童図書出版)は、ミステリーのアンソロジー。トラの密猟からコンピュータによる商品管理まで、背景は多彩。裕福な家庭あり、その使用人あり、子どもたちの境遇も日本のそれとは異なる。だが、子どもたちが知恵と勇気をふりしぼって事件を解決するおもしろさは、万国共通の少年ミステリーの楽しみだ。
 子ども向けミステリーの古典としてさまざまな場所でタイトルだけは目にするのに、実物を読んだことがなかった「ナンシー・ドルー」シリーズが、文庫版で手に入るうになった。キャロリン・キーン『少女探偵ナンシー』(土居耕訳、金の星社フォア文庫)は原著39年。お嬢様たちがつどう船上パーティーや怪しい外国人占い師といった道具立てが大時代なのが、今読めばなにやら雰囲気があっておもしろい。偶然の要素が多いなど、古典ゆえの限界も感じさせるが、日本では国民精神総動員運動が展開されていた年に、すでに少女探偵が活躍していたのかと思うと、感慨深いものがある。
 より新しめのところではオーガスト・ダーレスほか『T・シデムシの歌』(矢野浩三郎訳、岩崎書店)に始まるホラー・アンソロジー『恐怖と怪奇名作集』全10巻(刊行中)が目を引く。ロッド・サーリングほか『U・真夜中の太陽』の表題作は、少年時代のスピルバーグも夢中になったTVシリーズ「トワイライトゾーン」(日本放映タイトル「ミステリーゾーン」)の人気作家によるSFファンタジー。異常な事態に直面した人間心理を描くが、切り取り方はヒューマン。ジェローム・ビクスビーほか『V・今日もいい天気』表題作のテーマは、超能力児の孤独。といってもセンチメンタルなところはなく、コミニュケーション不在の恐怖を描く。所収作品はいずれもは大人向きに書かれたもののリライトのようだが、こうしたものを読むと「子ども向き」にありがちな「甘さ」がないところが新鮮に感じられてしまう。
 そんな「甘さ」がなく、かつ「子ども向き」に成功しているのが、B・B・カルホーンの「恐竜探偵フェントン」シリーズ(千葉茂樹訳、小峰書店)。父親の発掘に同伴して調査現場の田舎町へ引っ越した少年が化石をめぐる謎に挑戦する。流血も殺人もないテーマ設定が正解だし、恐竜についての知見は大人にも十分楽しめる。三作目『ごちゃまぜ化石事件』も、ペット好き、マンガ好きの子どもならではの視点が生きる。謎を仕掛けて能動的な読みを誘う(と見せかけて作者の手中に引き込む)知的な手法は、ミステリーだけでなく子どもの本一般に必要では。
                  (「日本児童文学」99年3−4月号)