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 一二月号である。けれども、実際の発売は一一月のはじめ。そのための原稿を書いている今は九月の下旬、題材となる翻訳書をまとめ読みしたのは、同じ月の上旬から下旬にかけてのことである。当然、取り扱う本のほとんどは各社が夏休みに向けて刊行したものということになり、今回手元に送られてきた翻訳書は前回の約五割増し。けっこう読みごたえがあった。
 そんな中で、「やはり」と思うことが一つあった。ここ二、三年、老人を扱った作品がやたらと目につく気がしていたのだが、今回はその傾向がもろにあらわれて、タイトルと帯の紹介を見ただけでそれとわかるものが全体の約三分の一。思い返せば前回もほぼ同様の情況だったから、これは中身を読み始める前に早くも感じた「やはり」だった。
 けれども、各国の児童作家たちが急に老人に興味をもち始めたわけではないだろう。翻訳書を出そうとする日本の児童書業界がそういう選択眼をはたらかせているのだ、と考えた方が自然だ。なにしろ、空前の高齢化社会がすぐ目の前に迫っているのだから、根っから真面目な我が児童文学界が、この事態をほおっておくはずがない。となれば、そこに描かれるのは「老いへの理解」か「お年寄りへの思いやり」か、それとも「過去の遺産を尊重しましょう」か、あるいは「正しい老人介護の在り方」なんてのもあるかもしれない。いずれにしても、ずいぶんとメッセージ性の強いものになるような気がする。「きんさんぎんさん」に大はしゃぎする一部マスコミのノリも気持ち悪いけど、そういうのもちょっとなあ。「意識の高さは認めるが、作品としては面白くない」的な、よくある作品評を書くことになるんだろうか。描かれた老人像がステレオタイプ化していないかどうかということも、一応チェックしておかなければならないし・・・。
 などということを、いささか防衛本能過剰ぎみにつらつら考えているところへ、モニカ・ハルティヒのひいおばあちゃん』(高橋洋子訳、講談社)に出くわして、いろんな意味で、ウーンとうなってしまった。主人公であるドイツの少女ヨシは、小学二年生の一人っ子。妹を欲しがっている。近くに住む母方の祖父母はまだ元気でピンピンしているので、彼女が「老人」の存在を知るのは、身内を亡くして行き場を失った曾祖母が、急遽彼女の家に同居することになってからだ。突然の環境の変化に戸惑い、町に出ては迷子になり、夜にはときとして布団を濡らすこともある「ひいばあば」。昔語りは巧みだが、その記憶は混乱を極め、ついには「生きようという気が、もうぜんぜんない」状態になってしまう「ひいばあば」。
 この「ひいばあば」はヨシの父親の祖母に当たる人なのだが、彼女を引き取る決心をするのも、実際にその介護に当たるのも、彼自身ではなくその妻、つまりはヨシの母親である。「ひいばあば」を引き取る直前の彼女は、ようやく子育ても一段落、再就職に意欲を燃やしていたのだが、その計画もやむなく先送りとなる。「あんな状態のひいばあばを、見も知らない人たちのところへやるわけにはいかない」からだ。そして、最初は「ひいばあば」との同居に猛反対していたヨシも、やがて自然に母親の手伝いをするようになる。すなわち、「ひいばあば」にお風呂をつかわせ、髪を編んでやり、本を読んで寝かせつける。まるで、「ひいばあば」の姉であるかのように、母であるかのように。
 そうして、ついに彼女は「ひいばあば」を心から愛しいと思うようになっている自分に気づく。その過程は確かに感動的だが、その反面、老人介護の重責がほぼ全面的に家庭内の女性の手にゆだねられている日本の現状が(ドイツのことはよく知りませんが)、このように肯定されてしまってよいのだろうか、という疑問がどうしても残る。同時に、いかに「ひいばあば」とはいえ、かくまでひ弱で、無力で、過去にしか生きられない老人像を描いてしまってよいのだろうか、ということも・・・。
 あるいはそれはこれと平行して、ナタリー・バビットのアマリリス号−−待ちつづけた海辺で』(斎藤健一訳、福武書店)を読んだからかもしれない。ときは一八八〇年。舞台はアメリカはニューイングランド地方のとある海辺。ここに登場する「おばあちゃん」もまた過去にしか生きられない老人だが、その過去へのこだわり方は「ひいばあば」のそれとは全く違っている。いわば、彼女の人生は三〇年前に止まってしまった。船乗りであった夫の船が、そのとき彼女の目の前で波に呑まれてしまったのだ。だが、不思議なことに、その船の残骸は何ひとつ浜に打ち寄せられてはこなかった。だから、彼女は未だに夫の死を納得できずにいる。そして三〇年間、同じ海辺で一人暮らしをしながら、船が沈んだ確かな「しるし」を海が彼女に返してくれる日をずっと待ち続けている。それも、彼女の信じる「別の世界」の論理で言えば、夫から彼女に贈られる愛の「しるし」として。
 船が波間に消えたとき、彼女にはまだ幼い一人息子のジョージがいたが、「あの子だけではもの足りなかった」。海を嫌って都会へと去って行く少年を、彼女は黙って見送った。だが、やがて体の衰えを感じた彼女は、そのジョージの娘ジェニーバをよび寄せ、身辺の世話をさせるかたわら、「しるし」への思いを継承しようとする。そして、ある日ついに待ち続けた「しるし」が流れ着き、彼女が自ら凍結した三〇年間を一気に清算することになる・・・。
 息子の目には狂気とも映った彼女の信じる「別の世界」を、彼女と同じ赤毛の、彼女と同じ名前の幼い孫娘はすんなりと受け入れた。若い日の恋を貫きとおそうとする祖母の姿に感動したからだ。そんな娘=孫の存在が、一度は疎遠となった母と息子の関係を正常に戻す役割を果たし、ここでの祖母は結果的に、児童文学界では珍しく、母性を捨てて恋に生きつつ少しも罰せられない幸せな女となった−−というのはまた別の視点からの評価だが、それはさておき、この『アマリリス号』が『ひいおばあちゃん』とはほぼ正反対の観点から、老年期にある女の生を描こうとしているのは確かなことだ。端的に言えば、『アマリリス号』は個人としての老女を描こうとし、『ひいおばあちゃん』は最大公約数的老女の像を子どもに伝えようとした。描く側の姿勢としてどちらがより正しいか、というような問題ではないが、とにかく考えさせられることの多い二冊だった。
 それとの関連で今回興味深かったのが、ライアン・ホワイトのエイズと闘った少年の記録』(加藤耕一訳、ポプラ社)である。著者であるライアンは血友病の血液製剤のために一三歳でエイズを発病。昨年一八歳で亡くなったアメリカの少年である。と言えば、エイズ問題に詳しい人ならすぐにピンとくるだろう。一九八六年、ライアンはエイズ患者である彼の登校を拒否した地域の中学校を訴え、激しい裁判闘争の末ついに学校側の決定を覆させたことで、一躍有名になった。そして、その後もエイズ患者に対する差別と闘うためにさまざまな活動を続け、度重なるテレビ出演と、その半生の映画化、マイケル・ジャクソンやエルトン・ジョンらの著名人との交流などを通じて、アメリカ全土にその顔と名前を知られるようになった。本書はそのライアンが最後の危篤状態に陥る直前まで書き綴っていた手記を抄訳したものである。
 その手記の内容はほぼ二つ。一つは、エイズという病気とその患者について、世間の人々が正しい認識を持つようになってほしいということ。もう一つは、彼自身が一人の中学生、高校生として、本当はどのように生きたかったのか、ということで、もちろんこの二つは互いに関連している。人々の間に、エイズは空気感染する、つばを吐きかけられたらうつる、などといった、ほとんど迷信のような誤解さえなければ、彼をかくまで有名にした裁判闘争も必要なかったわけで、彼は死を目前にひかえながらも、それなりに少年時代をエンジョイできたかもしれないのだ。「有名になるっていうのは、ときにはエイズ以上の孤独を意味することもある」。ライアン自身の言葉である。その点、この本の中で最も痛ましいのは、随所に織り込まれた彼自身の写真であるかもしれない。どのようなときにも、彼はにこやかに笑っている。けれども、それらはどれもこれも判でついたように同じ笑顔−−被写体になることに慣れきった有名人の笑顔なのだ。
 だがそれでも彼は、この本の訳者も言うように「めっぽう明るい」。医者の禁止を振り切って犬を飼い、ビリヤードに興じ、ガールフレンドとダンスパーティーにも出かける。できるだけ普通の生活をしたいという意志を最後まで貫き、大方の予想を裏切って五年も生き延びた。その意味で、これは読んで元気になれる本でもある。
 老いを理解することと、エイズを理解することと、日本の子どもたちにとってはどちらがよりむずかしいのだろうか。いずれにしても、本来現実の我が身からはほど遠い境遇に生きる人の話を、他人ごとでなく、自分の問題として感得できたときに、人は、子どもも大人も、その物語に感動するのではないだろうか。そういう感動に至れるのなら、メッセージ性が強くても弱くても、それはそれで大いに結構だ。
 というところで、最後に少し趣を変えてマーガレット・マーヒー贈りものは宇宙のカタログ』(青木由紀子訳、岩波書店)を取り上げてみたい。マーヒー・ファンにはおなじみの「変身」の物語だが、すでに邦訳のある『足音がやってくる』『めざめれば魔女』などとは違って、超自然の要素は見られない。主人公は、高校生のアンジェラと、そのボーイフレンドのティコ。とびっきりセクシーな女の子と、頭はいいが見かけはさえない男の子の組み合わせだ。互いに愛し合う二人だが、自分に自信のないティコは、アンジェラがいくらその気を見せても、彼女に対して恋人らしく振る舞うことができない。これが、問題のひとつ。もうひとつの問題は、私生児であるアンジェラの父親探しに端を発し、やっと巡り会えたその父親が、自分のことなど少しも気にかけていないことを知るに及んで、彼女がいわゆるアイデンティティ・クライシスに陥ってしまうことにある。この二つの問題が互いにからまり合って、二人はそれぞれに大「変身」をとげるのだ。 だが、「変身」の可能性 を見せるのは彼ら二人だけではない。夜中の二時に庭の草を刈りながら、「それまでとはすっかり違った人間に」「生まれ変わる」ことを夢見るアンジェラの母親ディドー。良妻賢母の鑑のような存在でありながら、日に二、三度は自分で巻いた紙巻き煙草をふかすという悪癖の持ち主でもあるティコの母ポッター夫人。そして、大恋愛の末に結ばれた夫と、別れる決意を固めるティコの姉アフリカ(本名です、念のため)。彼女は離婚の原因を次のように家族に説明する。夫は「一つも変わってない」「あたしが変わったの」だと。だからここでの「変身」は、そう簡単に「めでたしめでたし」では終わらない。それどころか、アンジェラの「変身」に大きくかかわり、自分自身も画期的な「変身」を遂げたティコが、「原子の偶然の動きが世界を構成するが、それは短期間しか持続しない」などという、とんでもなくアナーキーな悟りを開いてしまったりもする。もっとも、この言葉の裏には『宇宙のカタログ』というタネ本がある。科学好きの彼のためにアンジェラが選んだ誕生日のプレゼントだ。 そして、背の低いティコはこの本の上に乗って、アンジェラと初めてのキスをする。ラブ・ストーリーとし ては見事な仕かけだし、たとえそれがなくても、これは十分に美しいラブ・ストーリーである。そう言えば、若い人たちも手に取りやすいのではないでしょうか。 というあたりで、とりあえず今回は幕。(横川寿美子)
日本児童文学・翻訳時評V38/N12 1992/12