五月、六月という月は、新学期がはじまってしまい、夏休みの前でもあって、子どもの本の出版が沈滞する時期らしく、手元に届く翻訳本が少ない(約二十冊)ので、少々ものたりない思いがする。数多く出版されればいいというものでもないが、もっとも新鮮で、生きのいい作品を現代という状況の中でよむ快楽は何ものにもかえがたい。
『月刊絵本』六月号において、上野瞭氏はケイト・グリーナウェイの絵本についての座談会で生活の全く出ていない人形みたいな絵本をかわいい、いい絵本として受け入れるのは、退廃であり、現代社会のひずみをそのまま受け入れることに他ならないと、発言しておられる。ケイト・グリーナウェイのファンとしては痛い思いはするものの、あえてその退廃という悪徳を楽しんでしまう態度を持ちつづけてしまおう。かつての子どもの本は、教育的であるか、さもなくば、グリーナウェイのように自己表現として子ども時代(意識の中にある)への逃避的傾向をもつものが多かった。逃避することによって浮かび上がってくるものもあり、見失うものもあった筈である。
今、七八年に出版されるものの中にも、こうした面の濃厚なものもあり、まさに現代を抜きにしては成立しないものもある。年齢の低い幼児を対象としたものほど、教育的な側面が残存しているような気がする。それは読者が保守的であるのか、相変らず作家の児童観が保守的であるのか、どちらに原因があるのだろうか。今月に限っていえば、英米の二十年位も前のものを選んで出版しているのは何によるのだろうか。絵本と、十代の子ども向けのものは、かなり新しい革新的なものも翻訳されているのにくらべ、その中間の年代のものにフレッシュなものが見当らないのは、奇妙なことである。
1.小学中級向きの作品群
ボゴレーリスキィ作『アリョーシャと黒いめんどり』(田辺佐保子訳 鈴木義治画 旺文社) 今回読んだものの中でもっとも古い作品(一八二九年)であり、内容もまた古くさく、今日的な意味は感じられないものの、ソビエト児童文学の代表的なプロットの一つ-学校が舞台で宿題が(あるいは試験が)魔法によって一時的にうまくいくものの、それによって困難に陥る子ども-が百五十年前にきちんと成立しているという発見があった。
寄宿学校で生活しているアリョーシャは十歳、りこうなかわいい子で本好き。学校の寮でかっているめんどりクロちゃんの命を救ったことから、地下の小人の国に案内され、王様より何でも望みをかなえてあげるといわれ、「ぼくは、勉強しなくても、いつも宿題ができているようにしていただきたいです。」と頼んだことからそれが実現し、だんだんいけない子になっていく姿を描いている。クロちゃんのアリョーシャに寄せる恩義の固さとそれを裏切ってしまい病気になるアリョーシャを通して、一つの成長を扱っていると読めなくもないが、地下の国とのつながりがつくりものとしてうまくいっていないので、「すなおでやさしく、つつしみぶかくてまじめな子どもになろうと心がけました。」という結論だけが残ってしまっている。
べティー・マクドナルド作『ピグルウィグルおばさん』(中山知子訳 赤坂三好画 学研)原本は、一九四七・四九年の発行で、様々の問題児(ちらかし屋、けちんぼ、ずるやすみ……)を母親にたのまれて治療する魔法使いのピグルウィグルおばさんの話で、誇張されたユーモラスな事件や、その解決法を楽しむようにできている作品なのであろうが、一人一人の子どもの個性をいとも楽々と正してしまうおばさんをあまりに肯定的に描きすぎていて、迫ってくるものが全くない。三十年前の児童観がよく出てはいるけれど。
ドロシー・エドワーズ作『きかんぼのちいちゃいいもうと』(渡辺茂男訳 堀内誠一画福音館書店)一九五二年出版。もともとはBBC放送で語られたストーリーを出版したもので、姉が、昔の妹のやんちゃぶりを思い出してあれこれと話すという短篇集になっている。おさかなとり・ようせいのおにんぎょう・パーティへおよばれ・あみもののおけいこ・おとうさんとおるすばん・おぎょうぎのいいおきゃくさま……という目次でも明らかなように、「お」の字をつけて訳すのにふさわしい内容をもっている。幼児期に一つや二つは誰にでもありそうな体験談になっていて、少し昔の自分をふり返ることが案外好きな子どもたちの心理にぴったりな話が多い。語り手を姉としたことで、妹をみる眼が大人の視点と少し違っていることでも成功している。個人史の中で子どもは子どもなりの過去の確認をしたがっている存在であるということを思い出させてくれる作品である。安定した家庭・社会を想定した上に成立している女の子の世界ではある。
ジョーン・エイキン作『とんでもない月曜日』(猪能葉子訳 岩波少年文庫)一九五三、五五年出版。作者の後の『しずくの首飾り』『海の王国』と比較して、奔放な物語づくりでは、ひけをとらない反面、徽々のレべルで大人も楽しめるという点では、初期の作品だなあと思わせる。家の庭にユニコーンが来ても、アーミテージ夫妻がテントウ虫にされても別に不思議でもなんでもないかのごとく物語っていくエイキンのストーリーの語り方、飛び方は、つくづくおかしい。前三作の人畜無害。衛生処理済みの作品群と違って、少々のトゲも含む新しい傾向がほの見える作品になっている。
J・ウォール作『野ねずみハツラツは消防士』(山下明生訳 M・センダック画 あかね書房)一九六四年出版。何よりも訳がハツラツとしていることと、さしえの魅力でひきこまれる作品であった。森があって、動物がいて、様々の事件がおこるといえば陳腐な背景のようであるが、ストーリーはユニークな向日性そのものの、幼年童話のお手本のような作品になっていて気持がいい。六つの話はそれぞれ野ねずみでハツラツのいちずな生き方と、ビーバーのスカレテコマル、ハリネズミのシンパイダラケのおばさん、カエルのハヤノミコミ、カメのシロヒゲじいさんたちとの交流、悪役・フクロウのオソロシヤとキツネのクタクタをだしぬく話などでつながっていく。自然を歪めずに描いていることと、「正しいしと(にかぎる)」という立てふだでピクニックにいく人を募集したために、待てどくらせど誰もこずついにねむり込んでしまう話などにみられるように、人生を語る作者の語りロには、一見ユーモラスな世界の中にも真実なものをはっきりと示そうとする姿勢が感じられる。
こうして時代順に作品をとり出してみると、明らかに時代によって作品が制約されていることがわかる。七十年代の作品がみあたらないのは、操り返しいうが、どこに原因があるのだろうか。
2.イ夕リアの民話選
イタロ・カルヴィーノ作『みどりの小烏』(河島英昭訳 岩波書店)カルヴィーノが一九五六年に出した『イ夕リア民話集』の中から、三十四編を選んで子ども向けに少し手を入れ、七二年に出版されたものである。「小さな子どものための話」「女の子のための話」「恐ろしい話」「おかしな話」「少し悲しい話」「りこう者が勝つ話」という順番に整理されている。ユングを持ち出すまでもなく民話の常として、各民族の伝承している話には共通の要素があり、アルネ・トンプソンのタイプの分類を借りれば、どこかの番号に分類可能な話ばかりであるとはいえ、奇抜な作品で知られるカルヴィーノの作ということで、最近よんだ『マルコ・ポーロの見えない都市』(米川良夫訳 河出書房新社)のとらえどころのあるような、ないような難解な仕かけが残像にあるともあって、どれどれと乗り出してしまう。意外にカルヴィーノの手による再話部分が少なく、(巻末の注によると、「グリムの科学性は1/2で、私の仕事の科学性は3/4である。」と述べているとか)民話をできるだけ採話に近い形を尊重して語っているのが特徴とされ、それゆえに、イタリアを代表する民話集となっ ているともいえる。『民話集』の全体をよんでいないのでこの作品にとられなかったものと比較できないのは残念であるが、「ジュファーと石膏の彫像」のジュファーのような間抜けで役立たずのおかしな主人公の話を四篇も入れていて、"子ども向けに配慮して〃改変しているということではあるが、根本的なところは曲げられておらず、民話のコレクションにまた一冊、新しいものが入ったのがうれしい。
3.「歴史の中の人間シリーズ」の横書き
ピネロピ・ファーマー作『八月四日-第一次世界大戦の悲劇-』 (山ロ圭三郎訳ジョイル・ジョルダン画 篠崎書林)一九七五年版 ジョン・ロウ・タウンゼンド作『翼がほしい!-発明の父レオナルド・ダ・ヴィンチ-』(山口昌子訳 フィリップ・ゴフ画篠崎書林)一九七二年版。
イギリスの子どもの本の中でイギリスでは花盛りであるのに日本にあまり紹介されないものに、歴史書と歴史小説があるが、このシリーズでは、小学校中級向きの歴史書の紹介として珍しい。それぞれ目下活躍中の児童文学作家を起用していることと、さし絵が豊富に入っていることで、日本の子どもたちにも親しめると考えられたからかもしれない。しかし『八月四日』というタイトルでも了解できるように、われわれの歴史感覚にはピンとこない歴史的事実がとりあげられているので中味の真摯さは伝わるものの、また一人の女の子の平和な暮らしの中に突然戦争がとびこんでくる緊迫感はよく描かれているものの、距離があって入りこめない。『翼がほしい!』はダ・ヴィンチが主人公なので、そういう異和感はないものの、弟子ピエロという男の子が翼をつけて飛び、失敗する話を書いているので事実は事実としても読み物としては迫力がでない結果になっている。
また、訳は横書きで入れているのが読みづらい。それが単に慣れないとう問題なのか、活字や日本語の問題まで考えないといけないのか、あまり考察したことのない問題なので、課題として考えてみたい。(絵本であれば、いくらでも例があるし、それほど読みづらいとも思わないのはどうしてだろうか)
4.アメリ力で出版された戦争児童文学
べティ・グリーン作『ドイツ兵の夏』(内藤理恵子訳 偕成社)一九七三年刊。
第二次世界大戦を背景とした戦争児童文学が続々と紹介されている。国が違えば、歴史的事実は違うのは勿論であるにしても戦勝国敗戦国の区別なく、そこで生み出されていくのは不幸であったということがさまざまのアプローチから明らかにされているのは心強い。あまりに重い体験であったためか、戦後すぐのものよりも七十年を過ぎてからぽつりぽつりと出版される作品に迫真性のあるものが多い。
『ドイツ兵の夏』は、グリーンの自伝といっていい作品だということであるが、一九四○年代のはじめ、アメリカの中西部の町にドイツ兵の収容所ができる。その町に住むユダヤ人の少女パティーは十二歳、妹だけを愛している両親のもとで、孤独であり愛にうえている。彼女のもとに、収容所から自由を求めに脱走した心やさしいドイツ兵・アントンが飛びこんでくる。アントンがつかまれば死刑になること、かくまえば罪になること、自分がユダヤ人であること、相手がナチであること、ぺティーの心は揺れ続けるけれども、一人の若い男としてのアントンの人間性にひかれ、黒人の家政婦ルースの支えもあって車庫にかくまい続ける。それぞれに限界がきたこともあり、隠れ家から出ていったアントンはニューヨークで射殺され、パティーはFBIの手で捕らえられ感化院に送られる。そこに会いにきてくれたルースがアントンの遺品のゆびわを持ってきてくれる。両親はこない。そこでパティーは、「わたし働きたいな。だれにも知られない土地で。」と語り、ルースと別れて、「わたしはじっと、ルースのうしろすがたを見つめていた。救助いかだが外海にただよいさるのを見ているような気持ちだっ た。・・・たしかにいかだは難破した人をすくってくれる。が、陸地までつれていってくれるわけではない。せいぜい陸地が見えるところまでだ。さいごのさいごは、自分の力でおよいでいかなけれぱならないのだ。」と語る。そして「陸地にたどりつくことができるのだろうか? この答えを見つけるには、一生かかるかもしれない。」と結んでいる。
孤独な少女とドイツ兵との短い単独講和は、戦時中であるだけに純粋な輝きがある。差別されて、目抜き通りが突然泥の道にかわる地域に住んでいるルースの、差別され続けている民が持ちうる真のやさしさには打たれる。事実にもとづいていることもあって、にがさと何ともできない戦争という状況の重苦しさが、切々と伝わってくる。
5.オモチャの放浪記
ラッセル・ホーバン作『親子ネズミの冒険』(乾侑美子訳 評論社)一九六七年刊。
ラッセル・ホーバンといえば、ガース・ウィリアムズとのコンビでつくった絵本『おやすみなさいフランシス』の作家としてよく知られているが、最近ではむしろ、ファンタジーの、それもアダルト・ファンタジーの書き手として活躍中である。この『親子ネズミの冒険』は彼の転換期の作品として重要な意味をもったのであった。
アメリカのファンタジーが伝統的にアイデンティティ(自己確認・自己探求)のテーマを追っていることは、神宮輝夫氏のエッセイ「新しいアメリカのファンタジー」(『児童文学世界』1)などでも的確に指摘されているが、そこでは、 ロイド・アリグザンダーの『プリディン物語』やル・グウィンの『ゲド戦記』をアメリカ児童文学のフロンティアへのあこがれと、エピック・ファンタジーとして結晶させたものと考え、実は、『トム・ソーヤー』の延長線上にあると述べておられる。それがアメリカ的といえるという分析は、その通りだとしても、ホーバンの創り出しているファンタジーは、全く異質である。いわゆるアメリカの神話崩壊以後の荒廃の中の世界を扱っており、『オズの魔法使い』の機械じかけをファンタジーにとり入れた理想主義が一九六○年代に入ると、自分で自立するだけでもどれだけの遍歴と冒険を重ねなければならないかを語ることでつきてしまう。ホーバンの確認しようとしたものは明らかにフロンティアではなく、フロンティア消滅をはっきり自覚した上での遍歴といえるかと思う。そういう意味でこの作品は、「アメリカの」というコンテキストの中にはまりきらない、よ り深化したファンタジーといってよいかと思う。
クリスマスをひかえたオモチャ屋から売られ、クリスマス毎に出されてツリーの下で子どもを手にもってぐるぐる丸い円を描いて歩きまわっていたゼンマイじかけのネズミが、五年してごみ箱に捨てられるところから物語がはじまる。ごみためで大きなドブネズミ、マニー・ラットと出あい、そのネズミにつけねらわれながら、戦争にまきこまれたり、劇場に出演したり、池の底に沈められたりしながら、他の動物の手をかりてしか歩むことのできない宿命を何とかしたい、子ネズミはまた、家庭がほしいと遍歴していく。うらないをやるカエルとの出会い、カメの劇作家ヌマノ・ジャマエモンとの人生の追求、最後に、サンカゴイ、カワセミも参加して、親子ネズミは、宿敵マニー・ラットをやっつけて、人形の家を改造し、そこを渡り鳥のホテルとして、地域の文化センターのような場所にし、それぞれの登場人物は、持味を生かす場をえられるようになる。一度こわれたことで親子が離れた上に、マニー・ラットの職人的情熱によって自動巻きを内蔵し、自由に動きまわれるようになった親子はやっと自分の場がつくれたのであった。
こうしてみてくると、ごみためと、ネズミ、ゼンマイのオモチャと生きた動物(鳥、カメ、昆虫など)との関わり、雪の野原、汽車など、読み方によっていろんなシンボルによみとることができることがわかる。自動巻きになるために、自分の場をもつための戦いは、親子にとって生やさしいものではなかった。あきらめそうになりながら、子どもを手にもって前進を続ける親ネズミに、現代人のぺーソスを感じることは容易である。
それぞれのキャラクターの人生観は全体としてホーパンの真実とは何かということの追求のプロセスになっている。池の底にあるドックフードのあきかんに描かれている絵-カンにはオレンジ色のラぺルに白い字でポンゾ・ドッグフードと書いてあり、その下にコックのぼうしとエプロンをつけた、白黒ブチの小犬の絵がかいてあり、その犬はあと足で立ちあがって、小さなボンゾ・ドッグフードのかんをのせたおぼんを持っており、そのかんのラベルには、また白黒のブチの犬があと足で立ちあがって、ドックフードのかんをのせたおぼんをもち……と続き、しまいには見わけられなくなるというラべルを、「おわりということがない。そのはてにこそ、すべてのもとになる真実がある。」とカメにきかされて、毎日眺めていた子ネズミが、ある日、点々のあいだには、からっぽの白い空間しかないことを見てとり、最後の犬のむこうにみえるもの-自分たちという発見のシーンに、もっとも彼の哲学がよくあらわれている。またにくい敵親子ネズミの勝利を自分の手で完全にしてしまったマニー・ラットが、最後になって二人が自分と似ているネズミだという発見するシーンも印象に残る。
読者の読むレべルによって冒険小説とも哲学小説とも様々に読みうる作品である。
最後のぺージで、はじめと終わりだけ登場する宿なしが「にっこりすると、一年ぶりにまた、親子のネズミに声をかけました」と訳されているが、一年ぶりというのは明らかな誤訳で(二度目に、とするべき)、作品の時間的な広がりが著しくそこなわれているのは残念である。(三宅興子)