ぱろる創刊号
96/05

           
         
         
         
         
         
         
         
         
     
 一挙の絵。作家が一挙に把握した光景を、それと同じ瞬きで一挙に実現させた絵。一気呵成よりももっと短い、あたかも瞬間的に描き尽くしたかに見える絵。
木葉井悦子のみずまき』(講談社 1994)という絵本は、現実の視覚体験と同値の成覚を呼ぴ起こす絵の立ち現れ方に、まず圧倒される。「描く」という時間的経過が、完成された画面に感じられない絵。作家の内的なイメージを再現するというより、作家の見たものそのものが今ここにあるという印象。私は『みずまき』の画面に、この「今ここにあるもの」の生々しさを感じ、見るたびにドキドキする。
たぶんその印象は「新鮮さ」に由来している。木葉井はこの絵本に関わるものごとを、逐一、全身で新鮮に受けとめた。そして、新鮮という感覚のもつシャープな空気感をそのまま絵に浸透させ得た。この新鮮さが「今ここにあるもの」の生々しさを私にもたらしたのだと思う。『みずまき』の最初の見開き画面の庭を見てほしい。これは、ある庭の再現的描写なのではなく、今、まさに現実に目の前にあるのだ。絵を通じての擬似体験的な視覚ではなく、実際の視覚的体験そのものなのである。私は今この庭に立っている。そう思わせる生々しさがここにはある。
ものには形がある。その形をたしかに私は見ている。しかし私に見られたその形はつねに一定不変だろうか。違うと思う。とりわけその視野全体が、私にとって特別な光景である場合は、個々のものの形はいわゆる写真的な形態とは違うような気がする。写真によって写しとられたものの形態は、二次的‐再構成的な輪郭によってかたどられているのではないか。私たちがある特別な光景を実際に見た時の印象というのは、そういう写真的な形態の集合ではなく、個々の存在の核心を瞬間的に感知したうえでの全体的な把握に基づいているのではないか。
『みずまき』の画面にはそういう全体的な把握に基づく個々の形態が描かれている。だからリアルなのだ。生々しいのだ。しかもその生々しさは、各画面にとどめられた木葉井悦子の手と眼の痕跡によって増幅されている。作家の署名的=明晰な刻印というより、あるかなきかの痕跡。『みずまき』という絵本を木葉井の作品たらしめているのは、作家の自覚的手法ではなく、むしろそういう署名的作業を極力消し去って一挙に光景と接触しようとしてもどうしようもなく残ってしまう彼女の手と眼のわずかな痕跡である。その消去しきれない作家のわずかなしるしが、描かれた個々の存在をより生々しくさせ、他のだれでもない木葉井悦子の作品たらしめているのだ。
つまり、作家と光景、その二者の形あるものが互いの存在の核ぎりぎりの輪郭線上でほとんど直接的に出会った。その出会いの報告が『みずまき』なのである。外形をなぞった、いわば写真的な形態をかたどる輪郭ではなく、その存在が存立できるぎりぎりの形。その形同士の出会い。それが『みずまき』の核心である。女の子を見よ。犬を見よ。もうそう竹を見よ。・水を見よ。木葉井悦子と出会ったこれらの存在は、なんて切ない姿をしているのだろう。自らが自らであるということの肯定も否定も疑問も自負もすべて、まるまる抱え込んで踏んばった最終の形で出会うということは、こんなにも切ないのだ。在ることの切なさ。それをこれほど生々しく一亦した絵本はざらにあるものではない。
水をまくということは、水をまく以上でも以下のことでもない。そのあるがままのことが、あるがままに描かれたこの『みずまき』という絵本は、私の中でいつまでも特別な光景であり続けるだろう。(小野明
ぱろる 創刊号 1995/09/25
テキストファイル化 ひこ・田中