ぱろる2号
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 レイン・スミスとオールズハーグの新作が出た(邦訳はまだ)。いずれも力量にふさわしい快作で、しかも好一対の読後感を私は味わった。
まずレイン・スミスのMATHCURSE」(1995)。文章はジョン・シェスカ。二人は今までにも『三びきのコブタのほんとうの話』(岩波書店)や『くさいくさいチーズぽうや&たくさんのおとぼけ話』(ほるぷ出版、青山南の翻訳が絶品−)などを共作して、いたずらっ子ぶりを発揮している。今回の絵本は、まあタイトル通りの「算数のたたり」の話ではある。
冒頭に算数の先生の「その気になればたいていのことは算数の問題として考えられるのよ」という言葉があり、それを聞いた一人の少年が、その気になってしまうというわけだ。例えば彼は七時一五分に起きる。その後、服を着るのに一○分(このノロノロ具合いがいい)、朝食に一五分、歯磨きに一分かかる。ここで突如、問題が湧き起こる。
@学校行きのバスが八時発だとすると間に合うか? A一時間は何分か? B口の中に歯は何本あるか?・・・とまあ、算数するわけである。
しかし、お気付きのように設問の内容を見ると、たたりの強迫性はあまり感じられない。Bなどは、歯磨きからの連想とAの設問をうけてのmouthとmonthのシャレに思えるし、@とAの設問が少年の中で連続して想起されたとは考えにくい。
結局、この「MATHCURSE」という絵本は全編これ「はぐらかし」のオンパレード、という印象である。でたらめ、と言ってもいい。しかしちゃらんぽらんではない。でたらめという論理の筋をきちんと通している。ここらへんの匙加減が、ジョン・シエスカ+レイン・スミスのコンビの作品に一貫して感じられる肌触わりである。まさにレイン・スミスの描く絵の印象そのもの。「茶化し」や「おちゃらけ」ではなく、「はぐらかし」。私が捕捉しかかると、スルリとスマートにすりぬける。しかし私は別段不快にもならず、またおいかける。言わば快い鬼ごっこか。
例えるなら絵本という「子ども」の最も成熟した「大人的」な部分と私は交流している気分になるのだ。
一方オールズバーグのBADDAYATRIVERBEND」(1996)は、絵本という「大人」の最も無邪気な「子ども的」な部分と交流する感じである。その無邪気さは、この絵本のラスト3画面の「意外な」結末にかかわることなので、残念ながら詳しくは触れることができない。しかし、今、「意外な」という言葉をカッコ付きにしたように、この結末は私にとってはニヤリとする楽しみはあるが、私の抱えている「大人的」な部分をほとんど暴力的に揺さぶるような予測不可能な意外さはなかった。しかしそれは野手にビッチャーをやらせて「大したことないじゃないか」とうそぷくような言いがかりの類かもしれない(イチロー!)。
オールズバーグは端正である。過去に何作も傑作・話題作を作り、なおかつ新作も私の期待を決して裏切らない高品質の作品を発表し続けている。私はこの真撃な端正さが好きだ。特に近年目立ってきた彼独自のユーモアのセンスを断固支持する。私たち大人が絵本というメディアを通してなし得る子どもとのコミュニケーションの最も成熟した方法を、オールズバーグは実践していると思う。と同時に、私は絵の力量では甲乙つけがたいレイン・スミスの、この鬼ごっこのような体含みの痛快な快感をもたらすやんちゃなやり方を深く愛しているのである。(小野明

ぱろる2号 1995/12/20

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