ぱろる3号
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 旅は、自分の芯を虫干しにする良き方法である。芯は、旅で出会う明白なる未知にさらされることによって、刻々と更新され、確認され、ひとときの強固さを獲得する。そこまで望まなくとも最低限、旅が私の芯のありようを照らし出してさえくれたら、旅に出たことの帳尻は合うと私は思っている。
さて、荒井良二ピッタリーナ』(トムズボックス 1995)である。どうやら彼も、絵本の形で自分自身に旅をぶつけることによって、現時点における自分の芯のありようを確認しようとしているようだ。その際、彼は靴を鍵にした。
絵本の中の「ぽく」は旅の途上、靴がキュウクツになり、コレダローナという町で新しい靴を買おうとする。しかし、なかなか合う靴がなく、結局少し大きめの靴を買う。今度はカボカボする。そこでナンダローナの町に着くと、また靴屋に入るが、ここでもピッタリの靴は見つからず、今のカボカボよりは小さい、少しキツイ靴を手に入れる。でも以前のようなキユウクツさはない。こうして「ぽく」は旅を統ける。
ピッタリではない靴で歩くことの違和。その違和は、自分の足と靴の存在を幾度となく意識させ、また、靴とその路み歩く大地を意識させ、それは同時に足と大地の隔たりをも意識させる。絵本の中の「ぽく」はカボカボの靴で大雨にも遭う。靴の中の状態は推して知るべしである。
旅における足の大切さを考えれば、この靴の違和において「ぼく」は、自分と大地や雨などの自然との折り合いのズレを、つねにかすかに感じ続けているといっていい。この違和が「ぽく」の芯にひたひたと働きかける。そこで「ぽく」はピッタリを願う。ビッタリーナという「きみ」に手紙を何度も書く。願い事があるたびに書く。しかし私にはこの手紙が、具体的な何かをお願いしているようにはみえない。ただひたすら、願うことそれ自体のみをピッタリーナに宛てて綴っているのではないか。あるいはこう言ってもいい。願うことそれ自体が、「ぽく」にとってのピッタリなのである。もともと、願うという行ないは、自分にとってピッタリくると思われることやものを手に入れようとする動きだろう。しかしこの絵本の中の「ぽく」は、違和の靴によって絶えず揺さぷられている。旅の土台たる靴に水を差されることによって、ピッタリの輪郭がつねに揺さぶられる。このように恒常的に違和を抱えた「ぽく」は、ついには願うことそれ自体にピッタリを発見する。というかそれしかピッタリを手に入れる方途がないのだ。
たぶん、「ぽく」は観じたのだ。観じる、といってもそれは高所からの諦観ではない。悟りというほどの達観でもない。そういう一種のなだらかさを想起させる状態よりも、もっと動く、振幅のあるものだ。すなわち靴を媒介にした自分と自然との違和をひと足ごとに自分の芯と照合しながら確認していく作業を、私は「観じる」と呼びたいのである。
その観じたことー願いそれ自体を「ぼく」は手紙にし(手紙を書く画面はつねに自然の恵みにあふれている)、もっと直接的に大雨の中ででたらめな歌を大きな声で歌う(歌うこと自体が願うことなのだから、行為自体を純化するためには歌詞やメロディがでたらめなのは当然だ)。
そしてこの絶えざる違和を描くために荒井良二は、モノクロームのざわざわした線を選び(画面に揺れを持ち込み、かつその揺れを絶えず動かしていく線)、随所にンルエットを入れた(その画面に存在することの違和と自己主張)。彼独特の「感覚のリアリティー」が入念に描き出された傑作絵本である。(小野明
ぱろる3号 1996/04/20
テキストファイル化 ひこ・田中