ぱろる4号
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 宮沢賢治の文章は、絵本のテキストとしてとても人気がある。なにしろ賢治絵本は現在までのところ百冊を優に越えて出版されているのだ。これはもう、りっぱに一つのジャンルである。日本の昔話やグリム童話と同じように。その人気の理由はいくつか考えられるが、まず事実として賢治の死後五十年が経過して著作権のコントロールがとにもかくにもなくなったことが大きいと思われる。没年が一九三三年で、プラス五十年が一九八三年。この年以降に出版された賢治絵本が圧倒的に多い。つまり形としては宮沢賢治の作品も昔話やグリム童話の仲間入りをしたのである。
ただ今現役の作家の文章だとこうはいかない。ある優れた文章がありそれを絵本にしたとすると、その絵本の文章には当然著作権が生じ、出版社にも出版権という権利が確保される。だから画家や他の出版社の編集者が、これはとってもいい絵本の文章テキストだからぜひ私も絵本にしたいと思ったとしても、著作権者や出版権者の許諾や使用料が必要で自由に絵本にするわけにはいかないのだ。好き勝手に出版したいと思ったら、著作権者の死後五十年まで待たなくてはならない。
で、宮沢賢治作品はただ今それがとりあえず自由に出版できる状況なのである。だからある一編の賢治の文章に対して複数の絵本がつくられることになる。それはそれで読者としてはなかなかの楽しみではある。しかしなにしろ賢治の散文作品は百編前後ある。にもかかわらず絵本のテキストとして人気のあるのは、たぶん十編程度ではないだろうか。
つまり『注文の多い料理店』セロ弾きのゴーシュ』『どんぐりと山猫』『オツべルと象』『雪漉り』などがくり返しそのっど新しい画家を得て絵本化されているわけである。私は絵本に仕事として関わっているし、宮沢賢治の一応ファン(こう書かないと「マニア」に叱られるのではないかとひそかに怯えている)でもあるので、茂田井武の『セロひきのゴーシュ』(福音館 1996)も司修の『セロひきのゴーシュ』(冨山房 1986)も小林敏也の『セロ弾きのゴーシュ』(パロル舎 1986)もいいなあうんそうだよねああこういう描き方もあったんだとばかりに喜んで買ってきては楽しんでいるが、他の人はどうなのだろうか。一編の賢治作品に対する複数のヴィジュアルをどうとらえているのだろうか。ゴーシュの容貌、ゴーシュの家、やってくる猫、コンサートの様子。描く人の解釈、画風によって当然のごとくまったく異なるイメージができあがる。複数のゴーシュ。
読者が「この絵のゴーシュはちがう」と思うこともあれば「うん、ぴったりだ」と領くこともある。いずれにしろ読者自身が賢治の文章から想起したゴーシュのイメージと、実際に画家が描いたゴーシュとの異同を狙上にのせている。ここに映画との大きな差がある。映画では脚本などの文章テキストは、私たち観客の眼前に現れない。だから王役の容貌や言動に納得がいかないことがあっても、それは文章テキストについての映像解釈への不満ではない。あくまでもスクリーン上を動く主役の容貌・言動が腑に落ちないのである。一方絵本は、文章テキストも作品の重要な部分を担っている。だから文章と絵の照応の齟齬を読者が好き勝手に言える。ましてや独特の文章で鳴る宮沢賢治においてもだ。賢治絵本には、文章のヴィジュァル化についての実にたくさんのヒント、宝物、そして疑問がつまっている。(小野明
ぱろる4号 1996/09/25
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