児童文学クロニクル97
05

現象する物語
児童文学を「児童文学」とよばれている
書物だけに限定する必要はないのだが…


           
         
         
         
         
         
         
     
 この数か月間、あちこちで通称「エヴァ」こと「新世紀エヴァンゲリオン」の名を見聞きした。このSFアニメの劇場映画版「シト新生」は、春休みの興業成績1位だったそうだ。たぶん、このコラムが紙面にのるころには、次の「THE END OF EVANGELION」が話題になっていることだろう。わたし自身は、キャラクターデザインが好きになれず、いまひとつ、のれないでいる。
 ただ、ファンとおぼしき女の子男の子が、雑誌の投書のようなかたちで、「エヴァ」の登場人物・碇シンジや綾波レイの生き方にたくして、私的な悩み事をのべ、私探しをしようとしているのは、ちょっと気にかかる。かつて、人生論に場を提供するのは、文学の仕事だったように思うからだ。
 といって、もちろん、「エヴァ」を見て人生について考えてはいけないなどという決まりはない。大人たちだって、「知ってるつもり」や「火曜サスペンス劇場」といったテレビ番組を使って、人生を考えていたりする。われわれは、大人も子どもも、実際、かなり自由自在な使用者であり密猟者なのだ。
 むしろ、ドストエフスキーの『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』を読んで人生を考えるのなら正しいという思い込みこそ、奇妙である。名作といわれるあれだって、十九世紀の一ロシア人男性の頭から生まれたフィクションにすぎないのに……。
 児童文学を、児童文学とよばれている書物だけに限定する必要はない。いっそ、子どもがなんらかのメディア−絵本、童話、まんが、アニメetc.を区別せず−と接触して、そこに物語を読み取っているかぎり、そのつど児童文学が現象している、とした方がいいのではないか。でないと、「エヴァ」から生きるヒントをえた子どものことは、文学の埒外に置かれたままになってしまうだろう。まあ、聞かれれば、その子は、ほっといてくれて全然構わない、というだろうけど。 (石井直人)               
(「図書新聞」第2343号,1997.5.31)