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わたしは、いくつかの大学で「児童文学」という科目を担当してきたけれど、それが教養科目の場合、様々な学問を専攻する学生が聞きにくるので、児童文学に期待するものも様々で面白い。中には、どうしてこの授業をとったのか聞いてみると、他が政治学や社会学など大変な科目ばかりなので、この時間はリラックスしたかったからと答える、おそろしく正直な者もいる。一応、講義をしているのだから、あまりリラックスしてくれても困るのだけれど…。が、しばし、黙考。 リラックスできるひととき。これが、児童文学についての世間一般のイメージなのだろう。あるいは、児童文学が文学の中にわざわざ区別されて存在していることの社会的な意味でもあるだろう。すなわち、児童文学とは桃源郷である。いや、もう少し身近な感じでいえばリゾートである、と。このことを学生の言葉は教えてくれている。 ところで、世間でもっとも知名度の高い児童文学作家は、ミヒャエル・エンデと灰谷健次郎であるという説を聞いたことがある。たぶん、ほんとうだろう。この二人には、文明批判の思想や、どこかしら俗人ではなく仙人みたいな印象があって、児童文学の世間的なイメージに合うからである。 灰谷健次郎の最新作『はるかニライ・カナイ』(理論社)も期待を裏切らない。これは沖縄の渡嘉敷島の話である。いじめで学校に行かなくなってしまった女の子が東京から島にやってきて、元気を取り戻す。そして、戦争の事実も知ってゆく。本の帯に作者の言葉で「同じ日本の邦に、こんなに優しい人々がいる」とある。でも、わたしまで突然島に移住するわけにはいかない。第一、そんな輩がぞろぞろ来たら、島の生活は激変して、その美質も台無しになってしまうだろう。だからわたしは本を読むだけにする。ページを閉じて、バスを降り、キャンパスに向かうことにする。桃源郷ならぬ混在郷の俗人として。(石井直人)
(「図書新聞」第2347号,1997.6.28)
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