児童文学クロニクル97
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「子ども」から「大人」へ
「大人−子ども」の関係をおさえることから



           
         
         
         
         
         
         
     
 潮流が変ったのかな、と思った。小浜逸郎の『大人への条件』(ちくま新書)を見てのことである。これは、新書版だが、1987年の『方法としての子ども』以後の思索が凝縮された密度の高い「子ども論」である。とくに、芥川龍之介の『トロッコ』やつげ義春の『紅い花』など、子どもを描いた作品を分析する第三章が面白い。子どもが、あるとき、以前の世界観や生存の感覚では処理できない困難な契機に出会い、なにかに「気づく」ことで、「変成」をなしとげる(発達とはいわない)という「成長」のイメージは、熟読玩味すべきだろう。ただ、今回、注目しておきたいのはちょっと別のことである。タイトルに「子ども」ではなく「大人」をもってきたのに、ああ、なるほどと思ったのである。
 80年代の初め、川本三郎『走れナフタリン少年』、本田和子『異文化としての子ども』、中村雄二郎「問題群としての〈子供〉」といった画期的な「子ども論」が次々と刊行されて、「子ども」というキーワードは一種の流行のようになった。このとき、「子ども」とは人間の理想状態をさしていたように思う。できれば、いつまでも子どもでいたい、と。むろん、上記の論考をよく読めば、単純な子どもの理想化など書かれていない。が、読者の側が−私もその一人だが−勝手に読み込んだのである。そういえば、その後、スキゾ・キッズという言葉もあった。
 だが、今度は「大人」が求められるものに変ったのである。これは、生活実感として「大人」のイメージが掴みにくくなっていることの裏返しだろう。だが、「大人」のイメージが暗黙の前提であれ存在しないところに「子ども」のイメージだけが独立して存在できるはずはない。小浜逸郎がいうように「子ども」は「私たち大人との関係のなかで私たちのまなざしを浴び、私たちにまなざしを投げ返しながら現に生活している」のだ。だとすれば、この「大人−子ども」関係という一見自明そうな関係を押さえることから、児童文学も、再出発すべきなのではあるまいか。(石井直人
(「図書新聞」第2363号,1997.10.25)