児童文学クロニクル97
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読者の適齢期
子どもの想像界に内在的基準はないのだろうか



           
         
         
         
         
         
         
     
 児童文学に独特な習慣のひとつに、三、四歳からとか、小学校中学年以上といった、本に読者の適齢期(?)が指定されていることがある。たいてい、本の裏表紙あたりに書いてある。が、何歳だろうが読めれば読むし読めなきゃ読まないのだから、いかがわしいといえばいかがわしい。でも、プレゼントに迷った時など、贈る人はこれで安心できるから、止められない習慣なのである。が、今日、この習慣も二つの意味でゆらいでいる。
 ひとつは、早期教育によって、読書力のスタンダードが前倒しになりがちなことだ。四歳からと書いてある本を三歳で読めたりすると親御さんは誇らしいのだろう。「這えば立て、立てば歩めの親心」というわけだ。
 もうひとつは、本質的な疑問で、このスタンダードは学校教育の制度によって外側からあてがわれた物差しではないのかというものだ。こういう外在的な基準ではなくて、子どもの想像界に内在的な基準は、ないのだろうか。例えば、ひとはいつから夕焼けを美しいと感じるようになるのだろう。かつて、村瀬学さんは、名著『子ども体験』(大和書房)で自分史に即して十四歳からといっていた。が、年齢はどうでもよいかもしれない。夕焼けを美しいと感じることは、生活の利害をはなれた美意識が成立することだ。この美意識以前と以後こそが、そのひとをわかつ基準なのだから。この夕焼けの前後で、そのひとの文学の読み方は、一新されることだろう。
 同様に、サンタクロースの存在を信じているうちと信じなくなってからというのも、境界線だろう。昨年の11月に出版された、麻生武さんの『ファンタジーと現実』(金子書房)を読み直していてそう思った。サンタクロースを信じなくなることは、かえってファンタジーをファンタジーとして楽しめるようになることである。信じているうちは、それは現実だからだ。では、同様に、怪談が怖くなくなるのはいつからだろうか? むろん、この本は、おばけが怖くなくなったら読んで下さいなんて書くわけにはいかないけれど。 (石井直人
「図書新聞」第2369号,1997.12.13)