児童文学クロニクル97
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児童文学主義児童文学VS文学主義児童文学
児童と文学という二つの中心をもつ楕円である限り



           
         
         
         
         
         
         
     
 児童文学はいうまでもなく児童と文学という二つの言葉が合体して出来ているものだ。そのため、時により、人により、児童にウェイトがおかれたり、文学にウェイトがおかれたりする。児童文学史において間歇温泉のように吹き出してはくり返される「子どものためか自己表現か」という論争も、このことに由来する。児童主義児童文学VS文学主義児童文学とでもいうところか。海外児童文学の翻訳に際しての「リライトか完訳か」という意見対立も、同根である。
 この秋、講談社が「痛快 世界の冒険文学」というシリーズの刊行を開始した。第一回配本はジュール・ベルヌの『十五少年漂流記』。これを『背いて故郷』の志水辰夫がリライトした。解説の北上次郎の言葉を借りれば「翻案」である。たしかに1888年の原作は文体が少々かったるいかもしれない。けれども、あらすじの冒険度は他を以て代えがたい。となれば、今日の子どもが近づきやすいように書き直そうというわけである。第二回は『タイムマシン』を眉村卓がリライトする。全24巻すべて、このスタイルでゆく。
 他方、福音館古典童話シリーズも第二期に入った。大塚勇三訳の『ハックルベリー・フィンの冒険』上・下が最新刊である。こちらは完訳のわが道をゆく。いままでの翻訳はハックの一人称のしゃべくりをどういう日本語にするか苦心してきた。たとえば主語のI。浮浪児に「私」や「僕」はなかろう。かといって、岩波文庫版の「おら」もいかがなものか。マーク・トウェインがわざと方言や文法の間違いを駆使したことを活かしているのだが、まあ大胆である。新訳は「おれ」。やっと過不足ない文体に出会えた気がする。
 さて、完訳主義か子ども読者主義か? だが、この二者択一に決着がつくことはあるまい。なぜなら、児童文学は、児童と文学という二つの中心をもった楕円だから。子どものためと作者の自己表現が矛盾してあることの緊張こそがエネルギーの源泉なのである。 (石井直人
(「図書新聞」第2370号,1997.12.20)