*この資料の閲覧は大阪府立国際児童文学館(レファレンス直通06-876-7479)でできます。コピー郵送サービス(実費)あり。
*「児童文学評論」は「大阪新児童文学会」(事務局ひこ・田中)の機関誌です。
第一号[特集・那須田稔] 1968/09 | |
「那須田稔小論」 万屋秀雄 「『ぼくらの出航』小論」 西岡晃 「人間体験の追求と思想」 小林武 「『シラカバと少女』批判」 貴瀬昌義 「『もうひとつの夏』論」 林太美夫 | |
第二号[特集・長崎源之助] 1969/09 | |
「長崎源之助覚え書」 林太美夫 | |
第三号[特集・佐藤さとる] 1970/10 | |
「佐藤さとる小論」 万屋秀雄 「『誰も知らない小さな国』論」 林太美夫 | |
第四号[特集・戦後児童文学批評家論] 1972/03 | |
「戦後児童文学批評史論ノート」 林太美夫 「古田足日論」 万屋秀雄 「『水の上のタケル』について」 新まき子 「古田足日年表」 島岡道代 「上野瞭論」 亀井晃 「横谷輝論」 貴瀬昌義 「西本鶏介論」 林太美夫 「討論・『子どもと文学』」 亀井・清水・林・万屋 「座談会『これからの児童文学批評』」 大藤・奥田・向川・亀井・林・万屋 「児童文学批評をめぐる(二・三)の感想」 横谷輝 「児童文学批評の自立を!」 佐藤通雅 | |
第五号[特集なし] 1972/09 | |
「佐藤美津男論」林太美夫 「『赤毛のポチ』論」万屋秀雄 「『クラマはかせのなぜ』のおもしろさ」中山漠之 「ファンタジーの萎小化の原点−コロボックル三部作のもたらしたもの−」亀井晃 「岡本良雄論(1)」貴瀬昌義 「児童文学時評−盗作・大人の文学作家の児童文学評論作品−」万屋秀雄 「児童文学界の体質」大藤幹夫 「再び・児童文学の自立を!」佐藤通雅 | |
第六号[特集・山中恒(1)] 1973/03 | |
「[児童文学]から[児童読物]へ」大藤幹夫 「山中恒の世界(2)幼年文学にみるおもしろさ」中山漠之 「『とべたら本こ』論」万屋秀雄 「山中恒論ア・ラ・カルト」奥田継夫 「山中恒の世界−その母親像を中心に−」亀井晃 「岡本良雄論(2)」貴瀬昌義 「どんぐり裁判にみる宗教的倫理観とは」鵜生美子 [書評]「炭焼の辰」有末省三 「冒険者たち」「ホビットの冒険」鈴木檀 「海にはあしたがある」鵜生美子 「ジュンとひみつの友だち」花園幸雄 「なぜ書くか−私の歴史小説−」かつおきんや 「だれのために死ぬのか−賢治・隆介・あきらをつぐもの−」松田司郎 「戦後児童文学批評史論ノート(2)−大衆児童文学の再評価について−」林太美夫 | |
第七号[特集・山中恒 ]1973/09 | |
「山中文学の折返点」松田司郎 「山中恒論(3)山中恒の時代小説を流れるもの」万屋秀雄 「ある子どもと自然の離反現象」西沢正太郎 「二つのタイムトラベル」長谷川潮 「民話における再話の問題点」鵜生美子 [書評]「ハンカチの上の花畑」有末省三 「日本の『ガリバー』考−風刺的笑いの喪失−」原昌 「はじめの日の思い−まど・みちお少年特集『まめつぶのうた』の世界」佐藤通雅 「童話作家・新美南吉論」中田ふくこ | |
第八号[特集・いぬいとみこ] 1974/05 | |
「もんく・たらたら。あるいは、いぬいとみこ論序説」細谷建治 「幼年童話論・浜田広介といぬいとみこ」大藤幹夫 「いぬいとみこ小論」万屋秀雄 「現実と非現実の世界を行ききするもの『みどりの川のぎんしょきしょき』論」中山漠之 「『木かげの家の小人たち』論」林太美夫 「小人一家とキリスト教」有末省三 「雪の山小屋から−なぜ書くか、私の児童文学−」いぬいとみこ 「椀貸し伝説にみる背景」鵜生美子 「土着性と近代性の統一」久保喬 [書評]「猫は生きている」鈴木檀 「中学時代」平野寿美子 「人間の生命の重み−松田氏の作品『おゆん』にみる−」鵜生美子 「ある男のつぶやき−私と児童文学のかかわり−」続橋達雄 [連載]「戦後児童文学の名作(1)−『ほろびた国の旅』三木卓の詩と童話−」浜野卓也 | |
第九号[特集・今江祥智] 1974/12 | |
「今江祥智論」万屋秀雄 「今江文学と一九三二年生まれの戦争体験」持田槙子 「今江作品についての私自身のためのメモ」日之範之 「今江文学の中の少女像−『あのこ』とは−」鵜生美子 「『あのこ』に描かれた沈黙」畠山兆子 「『自然』へのとけこみについて−『水と光とそして私』−」 「『優しさごっこ』前夜祭−子どもと大人の交叉点−」奥田継夫 「『龍の子太郎』から『龍の子三太郎』 −ヒーローのありようと生きざま松谷・今江・さねとうの世界にそって−」松田司郎 「ファンから今江祥智さまへ−総括的賛辞−」鈴木檀 [書評]「水と光とそして私」貴瀬正子 「したたかな反骨の姿勢・今江祥智の『ぱるちざん』」中山漠之 インタビュー「私の児童文学を語る」今江祥智+中山・林 「小人一家とキリスト教(2)」有末省三 「新美南吉−真筆復元前後のことども−」佐藤通雅 「名作は悪書か」大藤幹夫 「風鈴の音−なぜ書くか、私の児童文学−」吉田とし 「虹と湯たんぽに出会った旅から −イギリスの子どもの文学に対する小さい報告−」三宅興子 [連載]「戦後児童文学批評家論・高山毅論(1)」林太美夫 [連載]「戦後児童文学の名作(2) −『龍の子田郎』から『ふたりのイーダ』へ−」浜野卓也 「児童文学の観点から見た女学雑誌」石沢小枝子 | |
第十号[特集・タウンゼント] 1975/08 | |
「タウンゼント・メイン・ペイトンをつなぐもの」万屋秀雄 「リアリズム児童文学のもつ限界性」持田槙子 「環境の中の子ども像と児童文学的見解の−考察」舟越晴美 「二つの『ジャングル街』の子どもたち」中山漠之 「タウンゼント児童文学で問いかけるもの」貴瀬正子 「『アーノルドのはげしい夏』論」鈴木檀 「『アーノルドのはげしい夏』賛」石沢小枝子 「アーノルドの存在が意味するもの」畠山兆子 「児童文学批評の基準について」タウンゼント・三宅興子訳 「J・R・タウンゼントの三つの顔(1)」アン・ヘリング 「タウンゼント氏の思い出から」亀山龍樹 「ペイトン『バラの構図』論」花園幸雄 「文学の質のちがい」塚原亮一 「日常生活の延長線上に位置するもの −『フリスビーおばさんとニムの家ねずみ』を通して−」鵜生美子 「戦争児童文学の書ける世代」有末省三 「アンデルセン『絵のない絵本』翻訳考−大正期を中心に−」大藤幹夫 「『竹くらべ』のことども」続橋達雄 「くちごもりつつ−なぜ書くか、私の児童文学」あまんきみこ 「絶望から希望への橋−なぜ書くか、私の児童文学」灰谷健次郎 [連載]「子どもにとって老人とは何なのか」松田司郎 [連載]「塚原健二郎論−その初期−(1)」五十嵐康夫 [連載]「戦後児童文学批評家論−高山毅論(2)」林太美夫 [連載]「戦後児童文学の名作(3)『ノンちゃん雲に乗る』」浜野卓也 | |
第十一号[特集・メイン・ペイトン] 1976/04 | |
「続・『リアリズム児童文学の限界性』」持田槙子 「児童文学に期待する楽しみ」石沢小枝子 「『文明』と『自然』のあいだの孤独」定松正 「『卒業の夏』」田中正彦 「環境の中の子ども像と児童文学的見解の一考察」舟越晴美 「ペイトン『バラの構図』論」中山漠之 「『バラの構図』の評価をめぐって」猪熊葉子 「メイン『地に消える少年鼓手』」畠山兆子 「『砂』を読んで」竹村延子 「娯楽性の喪失」林太美夫 「ウイリアム・メイン(1)」神宮輝夫 「内にあって叫びだすもの」貴瀬正子 「ファンタジーの魅力をさぐる−ルイス・ノートン・ピアスの作品を通して」万屋秀雄 「『オッペルと象』論」鵜生美子 「賢治の闇」佐藤通雅 「灰谷健次郎『兎の眼』論」瀬川文枝 「書評・『箱火ばちのおじいさん』」鵜生美子 「なぜ書くか私の児童文学−アリバイ崩し−」舟橋克彦 「断章−なぜ児童文学を書くのか」川村たかし [連載]「塚原健二郎論(2)」五十嵐康夫 [連載]「戦後児童文学の名作(4)岡野薫子と戦後動物児童文学」浜野卓也 [連載]「私の児童文学論(2)」塚原亮一 「児童文学批評のあり方」タウンゼント・三宅興子訳 | |
第十二号[特集・アラン・ガーナー] 1976/12 | |
「非現実世界の誘惑」石沢小枝子 「神話の世界と現在のかかわり」横川寿美子 「『エリダー』論」持田槙子 『ブリジンガメンの魔法の宝石』貴瀬正子 「時を駆けるふくろうの謎」岡山邦男 「ガーナーさんへ」田中正彦 「マイナス児童文学論」林太美夫 「これまでこれから−なぜ書くか私の児童文学」奥田継夫 「このごろ見たいもの−なぜ書くか私の児童文学」小納弘 「一つの句読点−なぜ書くか私の児童文学」斎藤了一 「短編を読んで」有末省三 「椋鳩十氏の処女童話『不思議な瓶』」大藤幹夫 「新美南吉の存立基盤」橋本慎一 「白秋の童謡観」佐藤通雅 「カニグズバーグとヘントフの世界」万屋秀雄 「『ちびくろ・さんぼ』論」大久保みどり | |
第十三号[特集・現代オーストラリアの児童文学・カニグズバーグ]1977/09 | |
「現代児童文学の一課題」石沢小枝子 「発見の旅人サウスオール」吉田純子 「サウスオール『燃えるアッシュロード』『ジョシュ』をめぐって」万屋秀雄 「サウスオール文学をめぐるメモ」しかたしん 「作品評価に関する一つの疑問」林太美夫 「『ぼくはレース場の持ち主だ!』論」持田槙子 「『ぼくはレース場の持ち主だ!』」芝田晴美 「『ぼくはレース場の持ち主だ!』」竹村延子 「E・L・カニグズバーグについて」島式子 「ドラゴンと謎とき」横川寿美子 「セッツァ夫人について」廉岡糸子 「『ロールパン・チーム作戦』・『ぼくがぼくであること』」貴瀬正子 「閉じこめられたクローディア」戸塚志子 「子どもにとって冒険とは何か」中山漠之 「なぜ書くか私の児童文学」岩瀬成子 「『また七ぎつね自転車にのる』」を読んで」鵜生美子 「森はな作『わたしはトシエです』」有末省三 「宮沢賢治の童話を読む」大藤幹夫 [連載]「塚原健二郎論−その初期(3)」五十嵐康夫 [連載]「戦後児童文学の名作(5)『向こう横町のおいなりさん』論」浜野卓也 「『二十歳の原点』論ノート」岡山邦男 [連載]「少年論(1)跳べないイカルス−」足立悦男 | |
第十四号[特集・ファンタジー ] 1978/08 | |
「ファンタジーとは何か」石沢小枝子 「イギリス児童文学における『妖精の運命について』(1)」持田槙子 「ジェイコブスのファンタジー」吉田純子 「ごっこ遊びと二人の作家(1)−ネスビットの場合−」横川寿美子 「ファンタジーにおける昔話の要素とその発展」角田典子 「ファンタジー作品に対する日本人の意識(1)『ナルニア国物語』の周辺」貴瀬正子 「キャリーから宝島へ・ナルニア国を通って」岡山邦男 「だれがメアリー・ポピンズを帰したの」戸塚志子 「グリーン・ノウ物語にみる『家』の意味」廉岡糸子 インタビュー「なぜ書くか私の児童文学」上野+中山・林 「ビジテリアン大祭の後−宮沢賢治ノート−」佐藤通雅 「巌谷小波研究覚え書」大藤幹夫 「絵のない絵本−松居直の人と思想−」長尾健一 [連載]「少女まんが散策(予告篇)」田中正彦 [連載]「少年論(2)叛意の風景−佐江衆一の初期短編−」足立悦男 | |
第一五号[特集・ファンタジー(2)] 1979/03 | |
「イギリス児童文学における『妖精の運命』について(2)」持田槙子 「『人形の家』におけるエミリーとシャーロットの役割」廉岡糸子 「『ねずみ女房』R・ゴッデン作」竹村延子 「ファンタジー作品に対する日本人の意識(2)」貴瀬正子 「クレスウェルはいかに魔法を使ったか」吉田純子 「五人婆ばやし」石沢小枝子 「なぜ書くか私の児童文学・何が彼らをそうさせたか」さとうまさみ 「とまどいながら」高浜直子 「イージー・リーディング」岡山邦男 「飢餓集団の子どもたち」長谷川潮 「『ネネム』から『ブドリ』へ」佐藤通雅 [連載]「やぶへび寄り道廻り道」田中正彦 | |
第一六号[特集・ファンタジー(3)] 1980/02 | |
「『砂の妖精』−その意義−」廉岡糸子 「『メアリ・ポピンズ』を考える」持田槙子 「斜視的『ホビットの冒険』談」林太美夫 「魔力の消えたあとから−ノートンの小人たちについて−」横川寿美子 「『トムは真夜中の庭で』象徴としての庭園」石沢小枝子 「エリナー・ファージョンの世界」貴瀬正子 「ガーナーはいかに魔法を使ったか」吉田純子 「黒の50という酒でエエキブンになってエーキンを」田中正彦 「『村は大きなパイつくり』に見るファンタジーの原点」有末省三 [連載]「戦後児童文学の名作(6)『木かげの家の小人たち』論」浜野卓也 [連載]「やぶへび寄り道廻り道(2)はせがわくんネコきらいか?」田中正彦 | |
第一七号[小特集・歴史児童文学] 1980/12 | |
「ファンタジーで出会える過去」持田槙子 「『中の国』の竜物語」吉田純子 「過去と現代の鏡」久保喬 「歴史の空白時代を書く」石沢小枝子 「E・G・スピア『青銅の弓』」貴瀬正子 「L・ガーフィールドに見るキャラクターの柔軟性」廉岡糸子 「あたりまえの話から始まって『星に帰った少女』雑感」横川寿美子 「『アフリカのショバイツアー』を読んで」オニク・マヤカーオ著・岡山邦男訳 「遠くのできごとに人はうつくしく怒る」戸塚志子 「松谷みよ子作『私のアンネ=フランク』」林太美夫 「少女たちは何を見つめているか」朝田奈緒子 「大人(書き手)は子どもと共存しうるか」中山漠之 [連載]「やぶへび寄り道廻り道(3)灰谷さんさみしいわ」田中正彦 | |
第一八号[特集・子どもの現状と児童文学] 1981/12 | |
「『座談会』子どもの現状と児童文学」 「子どもの現状と児童文学」石沢小枝子 「ファンタジーでどこまで子供の現状に迫れるか」吉田純子 「『機関銃要塞』の閃光が照らしだすもの」持田槙子 [連載]「やぶへび寄り道廻り道(4) ええかげんにしてやあんたら大人やろ『機関銃要塞の少年たち』」田中正彦 「一つのすれちがい−モンゴメリのブームに想うこと−」横川寿美子 [ごっぽう児童文学読後感]『ビラミッド帽子よさようなら』『ペーターの赤ちゃん』『海になみだはいらない』『少年の時』『北国の虹ものがたり』田中正彦 [ミニ作品論]『ゆりの花咲く谷間』松村弘子 「現状の子供達“障害児が問いかけるもの"」貴瀬正子 「『思い出のマーニー』雑感」林太美夫 「児童文学作家は何を書いてもゆるされる(1)」中山漠之 「グリーンノウの午後」廉岡糸子 [連載]「戦後児童文学の名作(7)「『魔神の海』論」浜野卓也 | |
第一九号[特集・子ども・現状・児童文学]1983/02 | |
[インタビュー]けったいな奴が生きている社会がいいな・森毅+田中正彦 「『異文化としての子ども』を追って−M・グリーペ、M・エンデの作品を中心に−」吉田純子 「子どもの現状から−六〇年代以後のアメリカの児童文学−」廉岡糸子 「子どもの本の相互理解−情報受信から発信へ−」石沢小枝子 「『はてしない物語』考」持田槙子 「母と子の“不安"をめぐって『夜の鳥』『少年ヨアキム』」貴瀬正子 「少女像少女観少女論『異文化としての子ども』について」横川寿美子 「ジュディブルーム読みちらし−アメリカでの読まれかた−」戸塚志子 [連載]「子ども情況論(1)とりあえず“おもちゃ"から見ると」野上暁 [連載]「やぶへび寄り道廻り道(5)『自由』たら言うもんについて」田中正彦 [連載企画]「なぜ書くか私の児童文学」堀直子・那須正幹・吉本直志郎 「バラの花にはトゲがある−五六年度課題図書『バラの心は海をわたった』を読んで」松浦武夫 [書評]モリーのアルバム・おれたちのおふくろ・野口くんの勉強べや・おばけ桃の冒険・いじわる夫婦が消えちゃった 「私の読書メモ(1)」廉岡糸子 「私の読書メモ(2)皆川博子『炎のように鳥のように』」石沢小枝子 | |
第二十号[特集なし]1984/03 | |
「なぜ書くか私の児童文学」竹崎有斐・皿海達哉 「児童文学と離婚『夜の鳥』『少年ヨアキム』を中心に」持田槙子 「読者から作家へ」廉岡糸子 「再び子どものイメージ M・センダックの作品を例に」石沢小枝子 「子供の心をもったおとなへの道」貴瀬正子 「幻から帰ってきた子どもたち』」持田槙子 「児童文学の魅力『忘れ川をこえた子どもたち』」吉田純子 [小特集]それぞれの場から 「こどもとおとなの交流の場として人体表現と物語テープ」花田直子 「印刷機のひびきの中から『季刊児童文学批評』のこと」宮川健郎 「『極光』と私」二上洋一 「『児童文学評論』創刊のことなど」万屋秀雄 「川村たかし入門 ゆっくりさながら地理勉強風に」田宮裕三 「『いま『少年マンガ』はどうなっておるのか」竹内オサム 「皿海達哉の作品世界をめぐって」松村弘子 「文庫からの報告−本当にやりたいこと−」岩崎英真 [書評]アナグマと暮らした少年・青いひれ・モリスのたからもの・夜のパパ・夜のパパとユリアの秘密・白鳥の夏・うちへ帰ろう・風はおまえをわすれない・花をくわえてどこへいく・ダニーはふつうの男の子・トーマス・ケンプの幽霊・風の十字路・家族・ベンはアンナが好き [連載]「子ども情況論(2)プラモ少年と野球少年」野上暁 [連載]「やぶへび寄り道廻り道(6)いっぱつかますについて」田中正彦 「私の読書メモ」廉岡糸子 「はるかなる[生命]にむかって『キューポラのある街』から『いのち生まれるとき』」横川寿美子 | |
第二十一号[特集・動物文学]1985/03 | |
「なぜ書くか私の児童文学」藤井まさみ・今関信子・松田司郎 [連載]「[趣味マンガ]のリアルな病い」竹内オサム 「別離の予感−動物物語の一側面について」横川寿美子 「人と動物の物語を読む−愛と成長の物語として」松村弘子 「動物は人間にとって何なのか」吉田純子 「『子鹿物語』再読」廉岡糸子 「シュエルが見ていたもの−『黒馬物語』を中心に」貴瀬正子 「動物文学と物語としての肉付け」持田槙子 「動物文学に見られるアフリカ」石沢小枝子 「動物文学雑感」林太美夫 「たどりつけるか児童文学(1)−まだまだたどりつけない[動物文学]」田中正彦 [書評]銀色ラッコのなみだ・しまふくろうの森・シラサギ物語・リーパス・私の動物園・ベルリア・シートン動物記・野性の呼び声・かわうそタルカ・黒ギツネと少年・幽霊をみた十の話 [連載]「子ども情況論(3)子どもTV新事情など」野上暁 「私の読書メモ(3)」廉岡糸子 「コウセン‥‥『赤い鳥』の綴方」宮本義男 「児童文学の魅力『夜のパパ』」持田槙子 「浜野卓也『戦後児童文学論』」林太美夫 | |
第二十二号[特集・マイノリティ(1)被抑圧民族]1986/03 | |
[連載]「子ども情況論(4)−ファミコンブームの現状」野上暁 「それぞれの側から語られるユダヤ人」吉田純子 「『シニとわたし』から『アンネ』へ」持田槙子 「『やぎのあたまに』にみる女三代記」貴瀬正子 「『やぎのあたまに』−生き残った視線」田中正彦 「子どもへのメッセージ−ヨシコ・ウチダの作品より」廉岡糸子 「異文化異民族をどう描くか」石沢小枝子 [書評]ヒットラーにぬすまれたももいろうさぎ・トパーズへの旅・エルクの日記・シニとわたしのいた二階・父への四つの質問 [寄稿]「少女小説と私」半田たつ子 [連載]「たどりつけるか児童文学−やっぱりまだまだ[動物文学]」田中正彦 「二重の鏡−再び動物物語の一側面について」横川寿美子 [連載]「マンガも密かに文学している−一九八〇年代のマンガ風景」竹内オサム | |
第二十三号[特集・<少女>を読む]1987/07 | |
[連載]「子ども情況論(5)ビックリマンシールブームなど」野上暁 「初潮という切札−日本児童文学の場合」横川寿美子 「役割からの解放−『大地の子エイラ』Home Comingより」廉岡糸子 「少女の物語雑感」松村弘子 「今日の少女小説−『日曜日のパパとママ』を例に」石沢小枝子 「子どもの視点から離婚・再婚考−『イルゼ姉さんの家出』」貴瀬正子 「『魔女の宅急便』を考える−かげをなくした笑い」持田槙子 「女性から見た<アーサー王物語>−『アヴァロンの霧』について」吉田純子 「西ドイツの少女小説の今日−少女時代自立への葛藤の時」上野陽子 [書評]青いイルカの島・春はひた走りにやってくる・わたしはアリラ・サティン入江のなぞ・海は知っていた 「Hはヘンな人のH−『優しさごっこ』の憂愁」田中正彦 [寄稿]「病者障害者を考える視点−2冊の児童文学を通して」松浦武夫 [連載]「パロディの夜はふけて−マンガVS児童文学」竹内オサム | |
第二十四号 [特集・古典の<少女>を読む]1988/09 | |
「書け!/書くな! ジョーの居場所、ルイザの居場所」田中正彦 「古典の少女たちの世界」廉岡糸子 「妖精物語の女性像の行方」吉田純子 「バーネットを読む」持田槙子 「『続・愛の若草物語』を読んで」山口文子 「不安定な少女が好きーちょっとわがままな私的告白」青野久美 「アンとエミリー・モンゴメリー作品に見る家族とエロス(前編)」横川寿美子 [特別企画 男の方に訊きました! アンケート 古典少女小説体験] 天沢退二郎・石井直人・大岡信・岡田淳・小浜逸郎・大村英昭・小田島雄志・上笙一郎・甲木善久・斎藤次郎・皿海達哉・菅泰男・名取弘文・竹崎有斐・鳥越信・野上暁・橋本治・日高敏隆・長谷川潮・原昌・藤田圭雄・舟崎克彦・増淵宗一・松田司郎・松本猛・宮川健郎・森耕一・森毅・渡辺恒夫 「フランソワ・カラデックの『フランス児童文学史』紹介」石沢小枝子 「『グリーン・ノウの子どもたち』作品分析」土居安子 [連載]「子ども情況論(6)異界に遊ぶ子どもたち」野上暁 [連載]「マンガ論(4)マンガの名作・古典とは何か」竹内オサム 「『コドモアサヒ』余録』石沢小枝子 | |
第二十五号 特集・家族 1989/10 | |
《特別インタビュー・ヘルトリングに聞く》ペーター・ヘルトリング/聞き手・上野陽子 「家族物語の系譜ー一九三〇年代、四〇年代のアメリカの児童文学から」廉岡糸子 「戦後の家族像」石澤小枝子 「フィリッパ・ピアス(1)主要作品における家族をめぐって」西田哲世 「『家族』像ー父親と子ども/八〇年代のアメリカ児童文学を中心として」井上靖代 「親と子の関係についてー深夜のつぶやき」青野久美 「新生家族への道(1)」吉田純子 「アンとエミリー/モンゴメリ作品に見る家族とエロス(後編)」横川寿美子 《連載》「子ども情況論(七)一九八九年夏ー情報ゲームの時代」野上曉 《連載》「マンガ論(五)手塚さんの思い出」竹内オサム 「『兎の眼』の眼」田中正彦 | |
第二十六号 特集・父親 1991/03 | |
《連載》子ども状況論(八)野上暁 《書評》「次郎物語」「のっぽのサラ」「ウホッホ探検隊」「北の国から」「あらしの前」「あらしの後」「急いで歩け、ゆっくり走れ」「赤い子馬」「ゼバスチアンからの電話」「鳥と少年」「父をたずねて三千円」「フィストンとデブとうさん」 【特集】父親 「父親たちの実像」廉岡糸子 「児童文学の父親たち」松村弘子 「新生家族への道」吉田純子 「ニューベリー賞受賞作品にみられる『父親像』」井上靖代 「『反道徳的』メッセージを伝える『Harriet the spy』」高鷲志子 「ファンタジーの世界」辻俊和 「フィリッパ・ピアス(二)」西田哲世 「『ホビットの冒険』への遠足」ひこ・田中 「国語教科書ではチビクロサンボはどのように掲載されていたか」土居安子 「差別される側の視点を読む−一冊の本を通して」松浦武夫 《連載》マンガ論「『悪書追放運動』の頃−今日のマンガ情況を考えるために−」竹内オサム | |
第二十七号 1993/04 | |
「日本児童文学ファンタジーの系譜」西田哲世 《書評》「びりっかすの神様」「星モグラ サンジの伝説」持田槇子 「三つの作品から私が個人的に受けとめた いくつかのメッセージについての覚え書き」相川美恵子 「ドラマ『北の国から』における男・女・子どもー五郎と令子の離別の物語を中心に」横川寿美子 「シンデレラたちは今ー女が語るお伽話」廉岡糸子 「パワー・ゲームを降りた女の生き方ー『帰還』の場合」吉田純子 「児童文学のメルヴェイユ」石澤小枝子 「『ジャズ・カントリー』ナット・ヘントフー自己確認への一つの道」山口真子 | |
第二十八号 1995/04 | |
「母のない娘」の物語 マザーライン・ストーリー 吉田純子 「笑いを通して見た立川文庫の世界」 相川美恵子 「『ドッグソング』と『ひとりぼっちの不時着』をつなぐもの ーーゲイリー・ポールセンにみる新しい価値観の模索」西村醇子グリム童話 「『いばら姫』の驚異 」 山口真子 書評 『ぎょろ目のジェラルド』『妖怪バンシーの本』松村弘子 「〇歳から七歳」 おばあさんのメモ帳 石沢小枝子 |
児童文学評論 二八号