子どもの本を読む

山陽新聞 1987.05.25

           
         
         
         
         
         
         
    
    
    
    



 ちょっと久しぶりで、雰囲気のある日本のファンタジー作品を何冊か読んだ。雰囲気のあるというのはあいまいな言い方だが、においのする、と言い換えてもよい。そして「ちょっと久しぶり」と書いたが、考えてみるとこれはだいぶ珍しい出来事だ。
「千年の夢とひきかえに」(武井直紀)は、南米の古代と今が交錯する、不思議な物語である。「チュキリャントウの伝説」と副題があるように、インディヘナの国に伝わるチュキリャントウ姫の物語が下敷きになっている。
 太陽の神に仕える乙女だったチュキリャントウは、人間の若者に恋をしたため、神殿を逃れ、故郷のアマゾンにたどりつく、そしてそのまま今に至るまで千年の眠りについたというのである。
 この伝説に心を寄せる現代の少女マリーア。このマリーアの父が経営する小さなホテルに、はるばる日本から、眠り姫チュキリャントウを求めて、一人の若者がやってくる。この設定は言わば荒唐無稽(けい)だが、若者ヒロシと案内人ラシャウエのアマゾンの旅には奇妙なリアリティーがある。描写のはしばしから、アマゾンのにおいがしてくる(感じがする)のだ。
 こうした作品をこんな風に意味づけてはかえっていけないかもしれないが、ヒロシが何のために、何を求めてここまで旅をしてきたのかが、ほの見えてくるのだ。この物語の旅や冒険が、作者自身の旅と深くかかわっているに違いない。
 「あいつの影ぼうし」(紀伊萬年)は、形としてはもう少し見取り図の書きやすいタイムファンタジーである。ここでは一人の少年が、父親の机の上で古い二枚の写真を見たことがモチーフとなり、二人の大人を道連れに、父の子どもの時代にタイムスリップする。
 こうした設定自体はこれまでに何度か見たものだが、一つは父がこれまで少年に語らなかった子どものころの境遇が次第に明かされていくという手法上の点、いま一つは、大人の二人の道連れのうち一人が自暴自棄になっていくプロセスがシビアに描かれるなど、大人の描かれ方がなかなかにリアルであるといった点、などがこの作品に深みを与えている。
 そして、何よりこの物語世界からは、終戦直後の時代の、海辺の町のにおいがしてくるのがいい。作者が説明ではなく、自分の育った時代そのものを子どもに向かって懸命に再現しようとしていて、それがタイムファンタジーとしてこの構成上の平板さを十分に救っている。
 このほかでは、高校受験に失敗した少女がやはり四十年前の時代の、結核病院に迷い込む「ルビー色の旅」(堀内純子)を読んだ。この作品はファンタジーとしての仕掛け、構成は前の二作より数段優れているが、生と死のはざまをくぐり抜けることで少女を立ち直らせようとする作者の意図が見えすぎてしまった分だけ弱い。鈴木まもるの挿絵がいい。
 「カザルスへの旅」は、子ども向けではないが、今最ものっている挿絵画家の一人伊勢英子の、カザルス(チェリスト)のあるいは宮沢賢治の故郷への旅の記録。もう一つ紹介したいのは、絵本で、絵の中のワニが“大きな川”を求めて放浪する「一まいのえ」(木葉井悦子)。
 今月は、作者にとって語らずにはいられない、そして語られる意味のある、いくつかの旅・夢・そして冒険に出合った。

千年の夢とひきかえに(武井直紀:作 桶あきら:絵 小峰書店)
あいつの影ぼうし(紀井萬年:作 宇野亜喜良:画 国土社)
ルビー色の旅(堀内純子:作 鈴木まもる:絵 講談社)
カザルスへの旅(伊勢英子:著 理論社)
一まいのえ(木葉井悦子:作 絵 フレーベル館)
テキストファイル化大澤ふみ