子どもの本を読む

神戸新聞 1987.08.28

           
         
         
         
         
         
         
    
    
    
 児童文学のノンフィクションの圧倒的主流は伝記、それもいわゆる”偉人伝”だった。
ノンフィクションとは、一口で言えば作者と読者が「事実」を共有し合う文学だと思うが、偉人伝が提供するそれは、教化のための規格化された(時としてわい曲された)「事実」にすぎす、そういう意味では児童文学の世界にノンフィクションの名に値するノンフィクションが現れ始めたのは、せいぜいここ十数年のことだと思う。とはいえ、まだまだ優れたノンフィクションは少ない。

 「火の島に生きる」(三田村信行)は、「悲劇の島・青ヶ島の記録」の副題が示すように、伊豆諸島南端の青ヶ島に生きる人々の苦難の歴史を追ったものである。
著者も前書きで触れているが、筆者自身も、八丈島のさらに南方にこうした島があることすら知らなかった。江戸時代八丈島の属島として、それなりに平穏な日々を送っていた青ヶ島の人々だが、天明の大噴火によって棄島を余儀なくされ(とはいえ、約半数の人々は取り残され、犠牲となった)、八丈島に移り、それ以降実に五十年をかけて起こし返し(島への還住)を果たした。
 しかし著者の目は、これらの人々を意志の人、努力の人一色に塗りつぶすのではなく、当時の社会情勢、起こし返しの中途での失敗の原因分析など、冷徹に追うことを忘れていない。ノンフィクションの方法はいろいろあるが、この本では著者はあまり表面に出ず、素材自体に語らせるオーソドックスな方法をとっている。だが、著者の素材へのこだわり、思いが全編を支え、結果としては素材をこえて、人間とは何か、歴史とは、文明とは何かを考えさせる、重い一冊となっている。

 「ブタまるごと一頭食べる」(鳥山敏子)は、そうした意味では対照的な本である。この作品は、著者の一種の実践記録と言ってよいが、まずは公立小学校の教室でブタを丸々一頭処理したという”実践”の中身に驚かせられる。この実践を中心にして、人が人として生きていくことの意味を著者は熱っぽく語り掛けている。
 さて、冒頭で「児童文学のノンフィクション」と書いたが、これを「子どもの本のノンフィクション」と言い換えると、かなり視野が広がってくる。簡単に言えば前者は書く側から、後者は読む側からの問題意識に沿った言い方なのだが、そうした読む(見る)楽しさを満喫させてくれるのが「絵の中を旅する」である。
 表紙に一枚の絵。19世紀中ごろに描かれた「マルリーのうきうき亭での結婚パーティー」。次のページからは、絵の中の人物、服装、背景、天候、自然などが次々に”解剖”されていき、絵が解き明かされていくのと同時に、読者は当時の人々の生活、風土を文字通り”旅”することになる。この本を作った三人の女性は、パリの子どものための博物館でさまざまな展覧会などを手掛けているという。
 この外、子どものノンフィクションということで言えば「保坂展人の元気印ランド やだもん!」「8月15日の子どもたち」を読んだ。保坂氏は高校入試の際の内申書闘争で著名。いじめや登校拒否にあえぐ子どもたちからのメッセージを満載。「8月15日の子どもたち」は終戦時に国民学校の生徒だった人々の証言。40年余を経ちながら、ともに時代にとっての子どもの意味を照射している。(藤田のぼる

「本のリスト」
火の島に生きる― 悲劇の島青ヶ島の記録 (三田村信行:作 偕成社)
ブタまるごと一頭食べる(鳥山敏子:作 花之内雅吉:絵 フレーベル館)
絵の中を旅する(シルビー・ラフェレールほか編著 大西昌子・大西広:訳 福音館書店)
保坂展人の元気印ランド やだもん!(保坂展人・金山福子:作 小学館)
8月15日の子どもたち(あの日を記録する会編 晶文社)
テキストファイル化渡辺みどり