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子どもの本にとって、楽しさ、ユーモアが大切なことは言うまでもありません。そして、それこそが日本の児童文学で最も欠けている点だとする意見も少なくありません。 その理由としてよく挙げられるのは、児童文学が「教育」と結び付きすぎているから、つまり書き手の過剰な教育的意識が児童文学から楽しさを奪っているのだとする考え方です。これは一見もっともらしいけれど、タマゴとニワトリをごっちゃにした話で、じゃ教育には楽しさやユーモアがいらないのか、ということになります。そうではなくて、今の日本の文化状況として、大人と子どもの間に、楽しさを共有できる言葉の回路がどう開かれているかという問題だと思うのです。 書店へ行けば、ユーモアめいたもの、子どもを面白がらせようとしている本にはこと欠きません。しかし、その大半は空振り、子どもと楽しさを共有できる言葉ではなく、そこにあるのは「ユーモア」の厚化粧をまとったわざとらしい言葉たちです。こうした中でまっとうなユーモアを感じさせてくれる本が出てくるには、作者の資質ということがかなりの比重を占めます。 「家出人が五人?!」の作者菊池俊は、1977年児童文学者協会新人賞を取って以来、十年間の沈黙を破っての再登場。ちょっと漫画の「めぞん一刻」を思わせるようなぼろアパート山六荘が舞台。主人公兼語り手で五年生の静は名前とは正反対の性格。なにしろ彼女は自分のことを「オレ」といって語り出します。最初はこうした言い方や、静のあまりのおせっかいやきぶりにややわざとらしさを感じましたが、読み進めていくうち、これが作者にとって決して取って付けたものではないと思えてきました。 おそらく今、この静のような女の子は現実にはいないのでしょう。けれど彼女が一種の狂言回しとして縦横無尽に活躍する中から、このアパートの住人や静を取り巻く人々の、哀(かな)しくもおかしい人間模様が浮き彫りにされていきます。この時、恐らく静は作者自身なのでしょう。現代の世話物とでもいうか、不思議な言葉を持った書き手だと思いました。 にぎやかな面白さという点では、「ほうれんそうマンのゆうれいじょう」(みづしま志穂)と「なんでもはかせのなんでもシロップ」(舟崎克彦)の二作を挙げます。どちらもシリーズ物で、漫画風のコマ割りや吹き出しを多用した挿絵もまたにぎやかで楽しめます。この種の本は、ストーリーへの毒の盛り加減が肝心で、作者はその呼吸を心得ているということでしょう。 これに対し、やや静かなおかしさ、しみじみとしたユーモアを感じさせてくれたのが「はじまりはイカめし!」(山末やすえ)と「わにくんぞうくん」(森山京)。後者は絵本。落ちついた文体でいて、さあ次はどうなる、という展開の面白さで読ませます。こうした作品は、注意深く読んでいくと、ストーリーの上で伏線が実にうまく張りめぐらされていることに気付きます。 最後に紹介するのは、絵本作家五味太郎の「ことわざ絵本PART2」。<聞いて極楽見て地獄>→<うわさの学習塾>。<親孝行したいときには親はなし>→<かわいがりたいときには子はなし>という具合。 (藤田のぼる) 「本のリスト」 家出人が五人?!(菊池俊:作 関屋敏隆:画 童心社) ほうれんそうマンのゆうれいじょう(みづしま志穂:作 原ゆたか:絵 ポプラ社) なんでもはかせのなんでもシロップ(舟崎克彦:文 長新太:絵 旺文社) はじまりはイカめし!(山末やすえ:作 西川おさむ:絵 秋書房) ことわざ絵本PART2(五味太郎:作・絵 岩崎書房)
テキストファイル化渡辺みどり
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