子どもの本を読む

中國新聞1987.11.03

           
         
         
         
         
         
         
    
    
 三冊の本がある。順に並べてみると「息子よ=母のレクイエム」(高橋菊江)「海のメダカ」(皿海達哉)「あたしをさがして」(岩瀬成子)ということになる。これら三冊からは、テーマまたは素材としての「家族」を共通項として引き出すことはできるが、その方法は極端に違っている。「息子よ=母のレクイエム」は徹底して事実の跡をたどろうとし、「あたしをさがして」は徹底して事実から離れようとし、「海のメダカ」はその中間辺りに位置している。

成長の軌跡を再現

 「息子よ=母のレクイエム」は大学一年で自殺したわが子の死の真相に迫るために、母親である作者が、彼の小学生時代からの成長の跡を再現したものである。両親の離婚、母の仕事、再婚といったことを含め、ここで描かれるのは子どもそのものというよりも、子どもから母親がどう見えていたのかという痛切な問い掛けである。その姿勢に感動すると同時に、読者はこの母親=作者の思いから外に出られない窮屈さも残る。
 一方「あたしをさがして」は、一口で言えばひどく難解な物語である。断片的な場面が悪夢の連続のように唐突につながる。ただこれらの設定に共通するモチーフは、”あたし”と”ママ”の話であること。そして”ママ”は”あたし”にとって、何やら永遠の理想であると同時に永遠の絶望であり、そうした焦燥感のようなものが断片的映像のような文章にのせられて語られる。

本質的問いに直面

 以上二作は、正直いって多くの子ども読者からは敬遠されるだろう。だが、こうした実験的な作品の存在が、次の「海のメダカ」のような作品の骨太なリアリティーを、両側から支えていると思う。
 サラリーマンの父、パートの母、高校生の姉、中学生である主人公康男という標準的な家庭。彼らが住むアパートにはいささか標準的でない家族もあり、中でも向かいに越してきた父子は、父親がおしぼり交換の仕事をしながら、息子を中学校に行かせず、息子は司法試験目指して勉強している。この風変わりな少年佳照や、一階に住む幼なじみの道代の登校拒否といった事態の中で、康男は結局最後まで”普通”の道を進むのだが、学校とは何か、教育とは何かといった本質的な問いに直面する。

理屈っぽさが効果

こう書くといかにも理屈っぽい物語に見えるが、さすがにこの作者らしく一人ひとりの描かれ方に確かなリアリティがあり、理屈っぽさは物語を損ねるのではなく、読者もまた作中の人物たちの問い掛けを共有せざるを得ないように作用してくる。作者の問い掛けの誠実さ、素朴さと、虚構としての面白さが溶け合った好例と言えるだろう。
 これらに比べて、むしろ幼年ものに描かれた「家族」の像の精彩のなさが目についた中で、「むかし ぼくも一年生だった」(岩本敏男)「エミちゃんとうさぎの家」(岡野薫子)の二作は、作品の中で子どもを甘やかしていないという姿勢に好感が持てた。
藤田のぼる

「本のリスト」
息子よ=母のレクイエム(高橋菊江:作 鈴木たくま:絵 理論社)
海のメダカ(皿海達哉:作 長新太:絵 偕成社)
あたしをさがして(岩瀬成子:作 飯野和好:絵 理論社)
むかし ぼくも一年生だった(岩本敏男:作 渡辺三郎:画 草土文化)
エミちゃんとうさぎの家(岡野薫子:作 渡辺一:絵 ポプラ社)
テキストファイル化渡辺みどり