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「モグラ原っぱのなかまたち」「おしいれのぼうけん」などの作者古田足日の、実に久しぶりの書き下ろし「へび山のあい子」を読んだ。 まずは、この本の作りに注目される。B5判、すなわち絵本のサイズに、創作単行本並の厚さ。つまり、かなり長い創作だが、絵との組み合わせにも絵本並の(あるいは以上の)配慮がされており、何ともぜいたくな本に仕上がっている。 ※ ※ ※ 古代と現代が交錯するこの物語だが、第二章以降は現代の少女あい子の物語。第一章ではあい子が住むへび山島での、古代の青い竜と赤いへびの闘いが描かれる。この時は赤いへびが勝ち、日照りの村に雨をもたらす。ただし、これは伝承としてではなく、事実として記述される。そして青い竜と赤いへびは、第二章以降のあい子が生きる現代にも登場するのだ。 物語は簡単に言えば、あい子が赤い小へびに助けられながら、青い竜の体の中で溶かされそうになった友達三人を救い出すというものである。ただし青い竜は、へび山島の対岸に横たわるコンビナートの実体というふうに設定さている。そしてもう一つの重要な設定は、あい子がいじめられっ子だということである。 この物語を、あい子のいじめ克服というふうなモチーフから読み解けば、その解決のバックボーンを、いわゆる近代的な考え方での”成長”に求めるのではなく、人間のより根源的なありようそのものに求めようとしている、と言えようか。言い換えれば”いじめらっれ子”といったとらえ方自体を、必ずしもマイナス要因としてでなく、プラスマイナスの振幅の大きい、それゆえに人間の本来的な力を呼び出すことのできるものとして、とらえかえそうとしているようにも見える。 この外、さまざまなモチーフからの読みがあり得ると思うが、果たしてこの物語で、子どもの読者がコンビナートを”敵”として共有できるかどうかには疑問が残った。 「ミッドナイト・ステーション」(八束澄子)は、ちょうどそうしたコンビナート地帯辺りの鉄鋼メーカーに勤める父親を持つ家族の物語。父親の東京転勤が決まったことで、それまで表面に出ていなかった家族のさまざまな問題が一気に噴き出る。夫婦の問題などを含め、ストレートには書きにくい問題を、力を込めて描いている作者の姿勢に感動した。 「しょうぼうたいはキンギョです」(坂本伊都子)は、友達の新築の家を見に行ったことをきっかけに、空襲で一軒だけ残ったわが家の歴史を見直す女の子の話。今の子どもたちの”住まい観”が見えてくるところも楽しい。 「ティナのおるすばん」(コルシュノフ作、石川素子訳)は、八歳の女の子の初めての留守番(母親が一泊してくるのだから、この辺りが日本と違う)が描かれる。ありがちな素材だが、この留守番を通して主人公ティナが、同じクラスのトルコ人(ドイツには多数のトルコ人労働者がいる)ギュカンと友達になるという辺りに、作者の社会への目を感じさせる。 八束、坂本、コルシュノフの三冊は、いずれも主人公が何かをきっかけに、何かを通して社会への目が開かれる。古田の「へび山のあい子」は、むしろあい子という少女を通して何かが語られる。前者を「小説」、後者を「物語」と、取りあえず呼んでおきたい。 (藤田のぼる) 「本のリスト」 へび山のあい子(古田足日:作 田畑精一:絵 童心社) ミッドナイト・ステーション−真夜中の駅−(八束澄子:作 小泉るみ子:絵 岩崎書店) しょうぼうたいはキンギョです(坂本伊都子:作 今井弓子:絵 草炎社) ティナのおるすばん(イリーナ・コルシュノフ:作 石川素子:訳 小林健一:絵 福武書店)
テキストファイル化渡辺みどり
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