子どもの本を読む

愛媛新聞 1988.02.29

           
         
         
         
         
         
         
    
    
    
 三田村信行といえば、正体はオオカミという私立探偵が活躍する「ウルフ探偵」シリーズや、学校社会のカリカチュアとも言える「ねこのネコカブリ小学校」シリーズなど、シニカルなエンターテインメントとも言うべき独特の作品世界を持った作家だが、そうした三田村の本領が十分に発揮された二冊の作品集が出た。
 「オオカミのゆめぼくのゆめ」は、カフカ的と言うとややほめすぎかもしれないが、日常と幻想が交錯する不条理のドラマとでも言うべき五つの短・中編から成っている。中でも標題作の「オオカミのゆめぼくのゆめ」がいい。
 山の中に住む一匹のオオカミが夢の中で人間の男の子になっている。T自分Uの友達や両親らしい人間が次々に現れて、オオカミはその男の子を演じなければいけなくなる。一方、人間の男の子(ぼく)は夢の中で一匹のオオカミになっている。他のオオカミたちはどこかに行ってしまっており、オオカミになったぼくは他の動物たちに次々に追い立てられる。
 物語はこのオオカミの夢とぼくの夢とが交錯していき、最後に学校にやってきた(オオカミの姿の)ぼくは、ぼくになったオオカミがその正体がバレてピストルで撃たれようとした瞬間、思わず飛び出してしまう。自分の中の不思議な自分、その怖さ、切なさ、懐かしさといった、一筋縄ではいかない寓意(ぐうい)が込められていると読んだ。
 一方、「ドアの向こうの秘密」は、ドアのこちら側とあちら側という素材を生かした連作短編集。第二話「年をとる家」では、新築したてのマイホームの中で、ドアを閉めたとたん時間が急速に流れ出し、この時間に閉じ込められた少年が、見る見るうちに古くなっていくわが家を、そして自分を見せられるという、一種の恐怖小説。二冊とも、ホームズや乱歩しか読まない男の子たちにも十分迎えられるだろう。
 「妖怪たちがよんでいる」(大原興三郎)は、田舎道を自転車で走っていた女の子が急に雷雨にあい、投げ出され、気がつくと不思議なものたちが立っており、彼らが次々に、妖怪(ようかい)になった自分の身の上を語って聞かせるという設定。人間たちによって妖怪にされてしまった彼らの物語の一つひとつも痛切だが、預けられたおばけの家で泥棒のぬれぎぬをきせられ、家出をしてきた女の子が、妖怪たちの優しさに引かれながらも、やはり人間の世界に戻ろうとする結びも効いている。
 「異人館に消えた男の子」(岡信子)は、神戸の異人館を舞台に、戦争前行方不明になった男の子を残してイギリスに帰らねばならなかった家族の悲劇を、現代の少女クミと、その行方不明になった男の子フィルとの不思議な出会いを通して訴えたファンタジー。
 「ひとくい巨人アビヨーヨー」は、アメリカのフォーク歌手ピート・シーガーの歌物語を絵本化したもの。村八分にされた親子が、町を襲ってきた伝説の巨人アビヨーヨーを、息子のウクレレと父親の魔法のつえで打ち負かし、再び町の人々に迎えられる。後書きによれば、一九五〇年代に作られたこの歌は、当時のT赤狩りUへのアンチテーゼの意思が込められたものだったというが、そうしたことは別にしても、白や茶、灰色と原色とを見事に組み合わせた絵が素晴らしく、物語世界に引き込んでくれる。(藤田のぼる
「本のリスト」
オオカミのゆめぼくのゆめ(三田村信行:作 佐々木マキ:絵 ほるぷ出版)
ドアの向こうの秘密(三田村信行:作 古味正康:絵 偕成社)
妖怪たちがよんでいる(大原興三郎:作 杵渕やすお:絵 PHP研究所)
異人館に消えた男の子(岡信子:作 笠原美子:絵 ひさかたチャイルド)
ひとくい巨人アビヨーヨー(ピート・シーガー:文 マイケル・ヘルズ:絵 木島始:訳 岩波書店)
テキストファイル化山本京子