子どもの本を読む

岩手日報 1988.03.30

         
         
         
         
         
    
    
 三月から四月、幼稚園・保育園児だった子が一年生になり、一年生は二年生になり、二年生は三年生になる・・・。「衣替え」という言葉はむしろこの時期の子どもたちにぴったりの気がします。幼稚園の服を脱ぎ捨て一年生の服を着る、一年生の衣装を外して二年生の衣装を身にまとう。僕らはそうしたことを「成長」といった一方通行的な言葉でくくりがちですが、当の子どもたちにとっては、誇らしさの一面と同時に、寸法の合わない服を着せられたような居心地の悪さの一面もあり、そこには違う自分自身の発見、別の自分との出会いのドラマがあります。
 共感を誘う自我
 「のぞみとぞぞみちゃん」(ときありえ)は、「るすばん」から「のぞみは一年生」までの六話から成るファンタジー。るすばんの日、のぞみの前に自分とそっくりの女の子が現れ、「ぞぞみ」と名乗ります。のぞみは小さい時、自分の名前をぞぞみとしか言えなかったのです。
 さてこの分身、時にはのぞみと等身大、時にはのぞみより大きかったり幼かったりと、現れ方も神出鬼没なら、言うことややることも一筋縄ではいかず、いつも言い争いになってしまいます。そして最後、一年生を目前にしたのぞみの前に現れたぞぞみちゃんに、「わたし、もう会えないよ」と宣言するのぞみ。しかしひどく寂しげなぞぞみちゃんを見て、のぞみは自分の影に入ることを提案し、こうして二人はT合体Uするのです。
 幼児の自我のありようがそれぞれのエピソードの中で見事に描かれており、子どもたちの共感を誘います。
 一年生の心模様
「いちねんせい」は、谷川俊太郎の詩と和田誠の絵で、さまざまな一年生の心模様がうたわれています。ユーモラスな詩、考えさせる詩、心をシーンとさせる詩・・・等々、これから一年生になる子にも、昔一年生だった人たちにも読んでほしい楽しい本です。
 次は二年生の本を二冊。「パパはすてきな男のおばさん」(石井睦美)の主人公マリの家では、ママが会社に勤め、パパが家の仕事をしています。授業参観の日の帰り、友達からそのことをおかしいと言われ、やっぱりおかしいのかなと思ってしまうマリ。新しい家族の姿が、決して大上段からではなく、マリの心の揺れを通して無理なく描かれます。ややポップアート風な司修の挿絵が実に効果的。
 なにか違う二年生
 「パッチンどめはだれにもあげない」(長崎夏海)の主人公あつこのクラスではやっているのが、パッチンどめ(髪をとめるピン)集め。男の子が女の子からもらって数を競うのです。乱暴者の金太と女の子に人気のあるかずひろ君がトップを争います。
 やっとお母さんに買ってもらったあつこから、早速金太が取り上げようとしますが、あつこは断固として渡しません。そして最後、あげるんならかずひろ君だとひそかに思っていたあつこが、あげるんなら金太だと思うようになる見事な転換。やはり二年生の心模様は、一年生のそれに何かが付け加えられるようです。
 「父さんの小さかったとき」(塩野米松:文、松岡達英:絵)は、題名の通り父親が自分が子どもだったころの生活や遊びを語って聞かせるという設定の絵本。大体、昭和二十年代から三十年代前半あたりの子どもたちの世界が見事に再現されています。親が子どもに自分の子どものころを話してあげるのに格好のT教材Uとなるでしょう。(藤田のぼる
 「本のリスト」
のぞみとぞぞみちゃん(ときありえ:作 橋本淳子:絵 理論社)
いちねんせい(谷川俊太郎:作 和田誠:絵 小学館)
パパはすてきな男のおばさん(石井睦美:作 司修:画 草土文化)
パッチンどめはだれにもあげない(長崎夏海:作 茂木智里:絵 岩崎書店)
父さんの小さかったとき(塩野米松:文 松岡達英:絵 福音館書店)
テキストファイル化山本京子