子どもの本を読む

山陽新聞 1988.04.25

           
         
         
         
         
         
         
    
    


 今月は「核」をテーマにした作品を何冊か読んだ。まずはイギリスの平和運動家ロバート・スウィンデルズの「弟を地に埋めて」、そしてこれまでは割合アトホームな作品の多かった征矢清の「ねこになった少年」の二冊である。
 私的な経験になるが、数年前初めて広島の原爆資料館を訪れた時、僕に最も強烈な印象を与えた写真は、被害の生々しい場面ではなく、被災証明書(だったと思うが)をもらうために延々と並ぶ人々を写したものだった。原爆はすべてを焼き尽したのではなく、実は原爆をもってしても"しくみ"は壊されていないことにショックを受けたのだ。この種の作品を読むたびに、この時のことを思い出す。
 「弟を地に埋めて」は、そうした意味で一応納得できる作品だった。核戦争の廃墟に父、弟とともに生き残った少年ダリー。この地方では政府組織の生き残りらしい「委員会」が作られるが、次第に醜悪な本質をあらわにし、人々は死か奴隷かの選択を迫られる。これに対して抵抗運動も組織され、父を失ったダリーも加わるが…といった筋立てで、ダリーは極限状況の中で人間の作るしくみに最も不幸な形で向き合わされる。
 戦争の怖さは死だけにあるのではなく、人間が人間以下のものになることであることが胸に響いてくる。
「ねこになった少年」は、日本人の少年が町で出会ったフランス人の若者から買い取った不思議な眼鏡をかけた途端、ネコに変身し、パリに立っている、という設定で、ネコたちの目を通して人間の状況が語られる。考えてみると、こうした問題での子どもの位置というのは、いかに危機感を持っても問題解決に対してはほとんど無力であり、人間の状況にいらだつネコたちの思いは、確かに子どもに重なるものを持つかもしれない。
 ただ二冊とももう一つ「核」そのものに迫りきれないもどかしさがあり、この点では、<ドキュメント・ノベル>と銘打たれた広瀬隆「チェルノブイリの少年たち」が、事故を起こした原発の技師一家の受難を追って、確かに怖い。
 ただし、このテーマは核兵器や原発そのものとして考えるだけでなく、社会のしくみ、南北問題、歴史観などさまざまな問題と重ね合わせて初めて腑(ふ)に落ちるだろう。こうした点でも何冊かの印象的な本があり、「地球に生きる」(岩崎駿介)は、今の日本のわれわれの生活がどのように世界と結び付いている(時に犠牲にしている)かを、食糧、エネルギー、情報などさまざまな地点から解き明かした社会科学絵本とでもいうべきもの。
 「自分のなかに歴史をよむ」(阿部謹也)は、ドイツ中世史の専門家である著者が、自分と学問の出合いや歩みを語りながら、歴史を研究することの意味を極めて柔軟にかつラディカルに考察したもの。とりわけ、著者のテーマの一つであるヨーロッパの被差別民や昔話に言及したあたりはオリジナリティーに富んでいる。
 さらにもう一つ「マンガ・人間の條件(1)」をあげておきたい。五味川純平の原作を石ノ森章太郎が劇画化したもので、戦時下における組織と人間について考えさせられる。劇画としてもこなれている。六月に四巻で完結の予定。最後の二冊は、この春高校生、大学生となった人たちに勧めたい。(藤田のぼる
「本のリスト」
弟を地に埋めて(ロバート・スウィンデルズ作、斉藤健一訳、福武書店)
ねこになった少年(征矢清作、やまだ紫画、岩波書店)
チェルノブイリの少年たち(広瀬隆著、太郎次郎社)
地球に生きる―ぼくたちの世界(岩崎駿介作、青木シン絵、岩崎書店)
自分のなかに歴史をよむ(阿部謹也著、筑摩書房)
マンガ・人間の條件(1)(五味川純平原作、石ノ森章太郎著、草土文化)
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