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「スタンド・バイ・ミー」以来スティーヴン・キングに凝っているが、最近邦訳された「ゴールデンボーイ」もすごい。典型的優等生の十三歳の少年と元大物ナチスの老人との確執を描いたものだが、ナチスの行為に"興味"を持っていた少年は、当時の出来事を細部まで聞き出そうとする。正体を公表されることを恐れ、渋々語っていた老人だが、少年が次第に老人の話にとりこになっていき、両者の力関係は微妙に変わり始める。ここから先はなかなか怖いのだが、少年の転落の姿を通して人間の抱えている本質的な"負"の部分をえぐる視線は本当にすごいと思う。児童文学の中でそうしたすごさを感じさせる作品となると、残念ながらやはり外国の作品ということになる。 「泥棒をつかまえろ!」(オットー・シュタイガー)はスイスの作品。中等学校の四年生ペーターのクラスは、夏休みにアルプスへキャンプに出掛けるが、そこでキャンプのお金が無くなってしまう。通報を受けてやってきた警官は、当然のようにイタリア人労働者の仕業だというが、一向に捕まえに行く気配はなく、代わってペーターたちが若い教師に率いられて、その"犯人"を追って国境に急ぐ。"犯人"を捜し出し、散々痛め付け、捕えた時の彼らの興奮ぶり、そして実はその彼が犯人ではないことが分かった時の驚愕(きょうがく)、後ろめたさ…。民族的な偏見、差別の問題も下敷としてはあるが、そうしたことを超えて、人間の持つ危うさ、怖さに迫り得ている。 ソビエトの作品「あの愛はいま」(ドラープキナ)もシビアさでは負けていない。同窓会で十何年ぶりかで再会したかつてのクラスメートたちが、章ごとにそれぞれの独白をつなげていくという演劇的な構成だが、その独白の中から、それぞれの個性とともに、彼らが共有していた(いる)らしい忌まわしい出来事の真相が次第に浮かび上がっていく。人が人を傷付けることの愚かさが、静かに、しかし鋭く告発されている。 さて、無論人をとらえる視線のシビアさが常に告発に向かうとは限らない。それは時には(甘さでない)温かみとなり、ユーモアにさえ結び付く。西ドイツの作品「おばあちゃんとあたし」(アヒム・ブレーガー)は、いつも元気な祖母の病気をきっかけに、自分や周囲の人々を見詰め直す少女の姿が温かく描かれている。少女が自分の不安を今までばかにしてきた少年に訴え、それを受け止めてくれる彼の良さに気付いていくプロセスがいい。 シルヴァスタインの「おとくなサイはいかがです?」は、この作者らしいエスプリに満ちた絵本。「ペットにすればいろんなことができますよ」と、サイの"利用"の仕方が次々に紹介される。その発想が実に自在で、幼児は幼児なりに、大人は大人なりにメッセージを受け取ることのできる不思議な魅力をたたえている。 「ウォーリーをさがせ!」は、日本の絵本「とこちゃんはどこ」に似た設定の遊べる絵本。語り手のウォーリーがあちこちに旅に出掛け、それぞれの場面から読者はウォーリーの姿を捜し出さなければいけない。無論どの場面も実に実にたくさんの人が描かれていて、その姿のさまざまに思わず見入ってしまう。こちらは読者の目のシビアさを挑発してくれる絵本というわけだ。(藤田のぼる) 「本のリスト」 ゴールデンボーイ(スティーヴン・キング作、浅倉久志訳、新潮文庫) 泥棒をつかまえろ!(オットー・シュタイガー作、高柳英子訳、佑学社) あの愛はいま(ドラープキナ作、田辺佐保子訳、司真実画、岩崎書店) おばあちゃんとあたし(アヒム・ブレーガー作、遠山明子訳、伊達正則訳、講談社) おとくなサイはいかがです?(シェル・シルヴァスタイン作・絵、吉川道夫訳、篠崎書林) ウォーリーをさがせ!(マーティン・ハンドフォード作・絵、唐沢則幸訳、フレーベル館)
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