子どもの本を読む

徳島新聞 1988.08.31

           
         
         
         
         
         
         
    
    
 遅ればせながら「黄色い髪」と「風葬の教室」を読んだ。大人の本は本体文庫本で済ませることにしているから、単行本で読むのは僕としては珍しいことだ。登校拒否、いじめといった素材を、干刈あがた、山田詠美といった作家がどんなふうに扱っているかにやはり興味があったからだ。
 「風葬の教室」は、むしろその孤高なかわいさ故にいじめの標的となる極めてさめた少女の独白体による小説である。そうした少女の目を通して描かれる今の教室のありようは確かに一種のすごさをもって迫ってくる。ただ、こうした子ども像は既に児童文学の側でも、森忠明、高田桂子、岩瀬成子といった書き手たちによって提出されており、そういう意味でこの作品は僕にとって大きな発見はなかった。
 その点、むしろ書き手としてはオーソドックスな「黄色い髪」に、新鮮な感動を覚えた。ここでは中学二年生の娘夏実の登校拒否を扱いながら、同時にこれを次第に自分自身の問題として意識していく母親史子のさまを追っている。娘の登校拒否という事態を境に、母親がこれまで積み重ねてきたこと、というより日常の一つひとつすべてのことの意味が問いの刃となり、自らに突き刺さる。それらの問いに言葉で答えることは簡単だが、それが目の前の夏実の苦悩には何の力を持ち得ないもどかしさ。史子は自分も街に出て、さすらう若者たちと話をしようとする。
 その展開はともかくとして、僕らに今できることは、そうした形で子どもたちに寄り添うことではないか。この作品では、言葉の上で明快な答えが出されているわけではないが、自らへの問いに誠実であろうとする史子の息遣いというか確かな手触りが、作中から立ち上がってくるようだった。
 「14歳−Fight」(後藤竜二)「屋根裏部屋の秘密」(松谷みよ子)という二つの力作に僕がもうひとつすんなり感動できなかったのは、前者は荒れた学校を立て直す中学生たち、後者は侵略戦争の実態に迫る若者たちが描かれているのだが、いずれも読む途中からゴールが見えているのだ。
 つまりは書き手の言葉の中に読み手が閉じ込められていく作品世界のありようへの抵抗感だったのではないか。
 そんなことを考えている時、灰谷健次郎の長編「海の図」を読んだ。灰谷文学は、書き手の思いに同化していく心地よさ故に読者を獲得してきたようにも思うが、この作品はちょっとトーンが違う。
 瀬戸内海の島の高校生(やはり登校拒否中)壮吉が主人公だが、ぼくには担任教師の島尾がとても面白かった。彼は壮吉を“理解”しようとする試行錯誤の中で、一番邪魔になっているのが“教師”という自分自身の枠そのものであることに思い至るのだ。このあたり「黄色い髪」の史子と共通するものがあり、「海の図」も対象からいって“児童文学”そのものでないのは悔しいと思う。作品としてはなぞ解きや、恋愛小説としても十分に楽しめるものとなっている。
 「片手いっぱいの星」はシリアが舞台。政情不安な中で、人間として、また政治的にも成長していく少年の姿にリアリティーがある。そうした成長にかかわる大人たちの役割も含めて。(藤田のぼる
テキストファイル化古賀ひろ子