子どもの本を読む

神奈川新聞 1988.09.29

           
         
         
         
         
         
         
    
    
 僕はこの二、三年、児童文学の今後を占うキーワードの一つとして“物語”ということについて考えてきた。大ざっぱに言えば、日本の現代児童文学の出発期、1960年代は物語の時代だったのに対し、70年代以降は基本的に“小説”の時代だったと思う。物語とは言い換えればメッセージであり、70年代以降の問題作の多くが小説の形をとらざるを得なかったということは、大人から子どもへ向けた言葉をメッセージに仕立てるにはあまりに不向きな時代だった、ということを象徴しているだろう。
 しかし一方で、子どもたちが、というより時代そのものが“物語”を求めているのではないか、困難でも新しい物語を作り上げていかなければならないのではないかという気がしていて、事実ここ二、三年そうしたことを予感させる作品が出始めていた。だが、これほど完ぺきな“物語”が、しかも新人作家の手で提出されるとは予想できなかった。荻原規子「空色勾玉(そらいろまがたま)」である。
 題名が示すように日本の神話を下敷きにしたファンタジーだが、神話についてほとんど知識のない僕には、この作品をきちんと紹介できる自信がない。
 輝(かぐ)の神を奉ずる一族の支配が強まる中、巻き返しを図る闇(くら)の神に導かれる一族。ヒロインの狭也(さや)は、普通の村娘として育つが、十五歳のかがいの日、自分が闇の一族の、それもこの世を決定づける大剣を鎮めるただ一人の巫女(みこ)の生まれであることを知る。同時にこの日、輝の一族の王子月代王に見いだされ、輝の宮の采女(うねめ)として召されるのである。
 だれのために、何のために闘うのか、まさしく神話的なファクターに彩られながら、しかし狭也の自己実現へのプロセスが決して絵空事ではなく、読み手の心の問題と重なってくるということは驚嘆に値する。日本の児童文学が待望した語り部の誕生と言えるだろう。
 「少年八犬伝(上・下)」(小野裕康)も、南総里見八犬伝を下敷きにした、近未来ファンタジーとでも呼ぶべき作品。
 国家機密法が施行されればさもありなんといった、管理と統制が張り巡らされた社会の中で、これに抵抗を試みる少年少女たちの物語。というふうにまとめてしまうことがてぎる分だけ、「空色勾玉」に比べてメッセージの質は粗いと言わなければならないが、近未来の“近”の加減(つまり日本の今との重なり具合)と、八人の戦士が発見されていくプロセスなど、こうした物語が持つべき魅力は基本的に備えている。
 「西遊記-おれは不死身の孫悟空」は、吉本直志郎の文、原ゆたかの絵という、子ども読者に人気の高いキャスティングで、原作にかなり忠実でありつつ、スピーディーな展開とユーモアあふれる語り口で読ませる。二巻、三巻と続いていきそうで、いわば“吉本版”西遊記が子どもたちの財産として一つ増えたことになる。
 「アリババと40人の盗賊」(馬場のぼる)「しらゆきひめ」(ベッティーナ・アンゾルゲ)は、ともに作者のそれぞれの素材への並々ならぬ情熱を感じさせる物語絵本。漂白されたような名作ものの絵本が少なくない中、この二冊の絵本は、作者によるアリババへの、あるいは白雪姫への、確かな“解釈”を感じさせる。いずれも文がかなり長いので、読んであげる絵本として勧めたい。(藤田のぼる
本のリスト
「空色勾玉」(荻原規子:作 福武書店)「少年八犬伝(上・下)」(小野裕康:作 多田ヒロシ:絵 理論社)「西遊記1−おれは不死身の孫悟空」(吉本直志郎:文 原ゆたか:絵 ポプラ社文庫)「アリババと40人の盗賊」(馬場のぼる:作 こぐま社)「しらゆきひめ」(グリム童話 ベッティーナ・アンゾルゲ:絵 斉藤尚子:訳 福武書店)
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