子どもの本を読む

宮崎日日新聞 1988.11.21

           
         
         
         
         
         
         
    
    
 空想物語、日常物語を問わず、現実の中に何かを一つプラスすることによって、あるいは一つマイナスさせることによってストーリーを展開させていくのは、よくある手法だ。プラスの例でいえば、宮沢賢治の「風の又三郎」は、村の小学校に高田三郎という不思議な少年がやってくることで、さまざまな波紋を呼び起こす。この場合、作者の狙いとして、プラスする側(又三郎)を描くのに重点が置かれる場合と、プラスされる側(村の少年たち、教室、あるいは村そのもの)を描くのが主眼である場合の二通りあるだろう。
 岡田淳の近作「びりっかすの神さま」は、明らかに後者のタイプであり、“びりっかす”と自ら名付けた、現代のティンカー・ペルとも言うべき中年の“妖精(ようせい)”が登場するが、しかしこの物語で明らかにされていくのは、そうした存在を通して照射される教室の子どもたちの側のありようである。
 この作品は、二重の意味での「プラス物語」になっていて、まず四年一組に木下始という転校生がやってくる。そして始は、転校一日目に、この教室の中に不思議な妖精もどきが飛んでいるのを目にするのだ。この妖精もどきはなぜか始にしか見えず、始はそれが自分の座っている座席と関係があるらしいとあたりをつける。この教室では成績順の座席配置になっていて、転入生の始はまず“びりっかす”の場所に座らされたのだ。

 始は実際勉強もスポーツも得意であるにもかかわらず、この“びりっかすの神さま”の正体を探るため、わざとその座席に居続ける。しかし、まず始の一つ前の席のみゆきが、おかしいと思い始めて…。教室のありようを突くとは言っても、肩ひじ張ったところはサラサラなく、今作品のテーマとストーリー展開を、これほど見事に調和させて読ませてくれる作家は珍しい。
 学校のありようを問うという意味では、「こんな学校あったらいいな−ミホのアメリカ学校日記−」は、アメリカ各地の小中学校を巡ったルポとして注目される。これまで、いわゆる帰国子女の体験記風のものはあったが、この本のように、アメリカ各地、それもアングロサクソンだけでなく、黒人、ユダヤ、メキシカン、インディアンなどの子どもたちの学生生活とその意見までを、子ども向けにルポしたものは初めてではないか。
 そこからは当然現代アメリカの病める部分も見えてくるが、それに対する子どもたちの発言が素晴らしく、日本の子どもたちが自分を取り巻く学校制度のありようを相対化させていくヒントになり得るだろう。
 「ちちお屋パパやコオカシヤ」(江藤初生)は、忙しい両親を持つジンが、町で「父親かします」の張り紙を見つけることから始まる。やがてジンたちは、自分たちも「子どもかします」というコオカシヤを始めて、繁盛しだすのだが…。今の親と子の在り方を、意表をつく設定とユーモラスな展開で描いた。やや辛口のホームドラマ。ここにも家庭というものの枠組みを相対化させたところから、大人と子どものありようを見つめようとする試みがある。
 「せんせいくらべ」(中野みち子)では、先生という枠の押し付けでない温かさの視点から、一年生の子どもたちの姿を描いている。できそうで、なかなかできない貴重な作品だと思う。(藤田のぼる
本のリスト
「びりっかすの神さま」(岡田淳:作・絵 偕成社)「こんな学校あったらいいな−ミホのアメリカ学校日記−」(粟津美穂:著 ポプラ社)「ちちお屋パパやコオカシヤ」(江藤初生:作 関口シュン:絵 小峰書店)「せんせいくらべ」(中野みち子:作 横井大侑:絵 けやき書房)
テキストファイル化古賀ひろ子