子どもの本を読む

山陰新聞 1989.01.24

           
         
         
         
         
         
         
    
    
 全くの私事から始めるが、年に一度くらいは東京から郷里の秋田に帰る。しかし、自分の目がかつてそこに住んでいたものから、年々観光客のそれに近くなっていることを感じる。やむを得ないことだとは思うが、そのことの高慢さからは逃れたいと願う。「自然は美しい」と思うのは勝手だが、そこで見えているのは極端に言えばその土地の幻影であって、実体ではないことを肝に銘じるべきだろう。
 「ようこそスイング家族」(大谷美和子)は、大阪の都会から、府下の過疎の村に、一家ごと山村留学≠オた家族の日々を描いた作品である。移住は主に両親の希望によるもので、その背景には典型的会社人間だった父親の行き詰まりがある。この作品からは、張り詰めた熱っぽさを感じるが、それは作者がこの一家のあり方を通して、現代の人間の生き方、家族のあり方を自己の切実な問題として見つめる姿勢によるものだろう。さらに加えて、この作品が山村留学に来ている子どもたち一人ひとりの背景や、町に塾や習い事に出掛ける時もとの子の生活などにきちんと目を向けていることは評価しつつ、僕にはどうしても心から共感できないものが残る。物語の終わり、父親が会社を辞めて村で山荘を開くことを決意するのだが、その選択の是非は別にして、彼らのそれまでの歩みがそうした形で清算されていいものだろうか。それがどうしても腑(ふ)に落ちない。
 同様な問題を、北海道の小さな町を舞台にした「ロビンソンおじさん」(今村葦子)にも感じた。この作品はとも子と浩という姉弟の、夏休みの素晴らしい探検≠描いた一種の休暇物語であり、いつも見ている川の水源を突き止めるというアイデアや、その探検のプロセスの描写などさすがと思わせる。ただ、僕が引っかかるのは、姉弟の探検の火付け役となるロビンソンおじさん≠アと、母の弟の修二の描かれ方である。彼は東京の会社を辞めて来たのだ。「学校でいえば、テストの点数、会社でいえば、もうけたお金。ほんとうにだいじなものって、そんなものだろうか?」という修二の述懐が、この作品世界では受け入れられ、むしろ人間らしいありようとして称揚されているように見えるが、果たしてそうなのだろうか。
 もう一つ、「ポケットのなかの<エーエン>」(岩瀬成子)をおいてみる。ここに登場する二人の少女の家族もまた、町から過疎の村にやってきた。この二人の、村に安易には同化しない少女たちの像はなかなか面白いが、大枠として彼女たちの両親の生き方ー父親の一人は木工デザイナー、もう一人は志願農民ーは首肯されているように見える。
 僕はここでやり玉に挙がっている会社人間≠ニいったとらえ方に、かつて盛んに使われた教育ママ≠ニいう言葉と同様の響きを感じる。現象のある側面は突いているものの、人の目を本質からそらす。管理社会、過密、過疎、それらの根は同一のところにあり、居場所を変えることでそのシステムから自由であり得るとは、童話的≠ノ過ぎるのではあるまいか。
 「きたかぜどおりのおじいさん」(杉みき子)は、農作業からは一応リタイアした一人の老人の暮らしを通して、人間にとって本当に大切なものが何かということを、しみじみと考えさせてくれる。(藤田のぼる

<本のリスト>
「ようこそスイング家族」(大谷美和子作、中村悦子絵、講談社)
「ロビンソンおじさん」(今村葦子作、津尾美智子絵、講談社)
「ポケットのなかの<エーエン>」(岩瀬成子作、柳生まち子絵、理論社)
「きたかぜどおりのおじいさん」(杉みきこ作、遠藤てるよ絵、PHP出版)
テキストファイル化中島晴美