子どもの本を読む

神奈川新聞 1989.08.31

           
         
         
         
         
         
         
    
 今、外国の作家で最も注目している作家を一人挙げよということになれば、僕はためらうことなくトールモー・ハウゲンの名前を挙げる。ノルウェーの作家で、まだ四十代でもあり、日本で紹介されている作品もそう多くはないが、近い将来ビッグネームになるに違いない。
 僕は一九八二年に翻訳された「夜の鳥」(旺文社刊)という作品で彼に出会ったのだが、そこで第一に感心したことは、子どもの不安と大人の不安(あるいは不安を基調とした心のありよう)が実にデリケートに描き分けられていることだった。
 僕は現在の児童文学の最大の課題は、大人と子どもの関係が大きく揺らぎ、変わりつつある現実の前で、大人と子どもの姿をそれぞれに描き分けながら、かつその重なる部分をもしっかりととらえていくことにあると思う。言い換えれば、僕ら大人が今どのように子どもの”味方”であり得るのかを、シビアに見つめ直そう、ということになるか。
 今回訳出された「夏には−きっと」は、今述べた「夜の鳥」のさらに前、一九七四年に発表された作品ということで、作品としては若干未成熟な面もあるけれど、ハウゲン独特の繊細さで少女の心を描きながら、こうした課題に鋭く迫っている。
 主人公のブリットは十二歳、敏感で傷つきやすい彼女の心は、友達の裏切りや父母の不和といったことを前にして、激しく揺れ動く。僕は、ブリットの不安は、かつての教師や親といった(善くも悪くも)”絶対者”である大人のいない今の子どもたちの不安そのものではないかと思う。子どもは成長の課程でそうした絶対者を乗り越えることが必要であり、そうした絶対者を失った子どもたちの悩みに寄り添う者としてブリットはいる。また大人の側の登場人物としては、ブリットの悩みを理解し、自身はいわゆる未婚の母として生きようとする女性像に、作者のメッセージが込められているようだ。
 こうした作品の隣には日本の作品を並べにくいが、「ぼくがイルカにのった少年になる日まで」(しんどうぎんこ)が、子連れ同士の再婚という設定の中で、新しい母親や妹との生活を受け入れていこうとする少年の心のプロセスを追って、共感を呼ぶ。道具立てにやや風俗的なものを感じる部分もあるが、新しい母親の姿を、その人の”生き方”という文脈でとらえようとしている少年の像に新しさを感じた。
 「いれかわりオニ」(日比茂樹)は、ちょっと異色の幼年文学。やっと遊園地に連れていってくれた父親と手をつないで歩いているうち、ふっと父親が別の何かに入れ替わる。それが”いれかわりオニ”なのだが、親が子を「いなくなればいい」と思った瞬間に入れ替わる、という設定はちょっと怖い。
 これは今までの作品とはテーマは少し別の所にあるけれど、絵本「こんとあき」(林明子)は、少女の心の成長の軌跡を、縫いぐるみの人形とのかかわりで、見事に表現している。おばあちゃんが送ってくれたきつねの人形のこん。あきが大きくなり、こんが傷んできたので、おばあちゃんに直してもらうため、二人は旅に出掛ける。少女の両親などは一切登場しないこの絵本の方法に感心しつつ、やはりこの少女の成長の向こうにいる大人の姿が妙に気になったりもした。(藤田のぼる

本のリスト
夏には−きっと(T・ハウゲン:作 木村由利子:訳 浜田洋子:絵 文研出版)
ぼくがイルカにのった少年になる日まで(しんどうぎんこ:作 林静一:絵 講談社)
いれかわりオニ(日比茂樹:作 岡本美子:絵 教育画劇)
こんとあき(林明子:作 福音館書店)

テキストファイル化岩本 みづ穂