子どもの本を読む

岐阜新聞 1989.09.27

           
         
         
         
         
         
         
    
 先日、ある教育雑誌のインタビューを受ける機会があった。話題の中心は、この雑誌が小学四年生の教師対象ということもあり、なぜこのグレードにいい作品が少ないのかということだった。これについての僕の答えを要約すれば、今大人と子どもが非常に共通の言葉を持ちにくい状況が、中学年向きの作品の不振に集中的に表れているのではないかということである。
 ここで誤解を恐れず言い換えれば、児童文学は確かに”子どもだまし”ではあるのだが、しかし作者自身も同じようにだまされることができるなら、そこに共通の言葉、イメージ、物語が生まれ得る。例えば今日、「友達」といった言葉、あるいは「頑張る」といった言葉に、大人と子どもが同じようにだまされる−すなわち、共通の願いをかけることができるだろうか。往々にして彼らがそうした言葉から受けるものは、大人の側の押し付けがましさ、うそっぽさにほかならないだろう。
 こうした状況が、僕は中学年という本来最も児童文学らしい児童文学が書かれるべき分野の不振に直接結びついていると考えるのだ。
 前置きが長くなったが、こうした時、優れた中級の作品を生み出す要件があるとすれば、それは何よりも作者自身へのやわらかな問い掛けの心とでもいうべきものではないか。
 「三日間、ボクかしだします。」(山末やすえ)は、ややファンタスチックなタイトルながら、物語の作りとしては極めてシンプルな作品である。おばあちゃんからジュンペイに、春休みの三日間、孫娘(ジュンペイにとってはいとこ)のケイちゃんのお守り役に来てくれと頼んできた。ケイちゃんの両親が離婚して、おばあちゃんが一時的に預かったものの、大分扱いかねているらしい。
 しぶしぶ出掛けたジュンペイと、これを迎えうつケイちゃんとの三日間をサラッと描いているのだが、それぞれの登場人物の思いが実に無理なく伝わってくる。
 おばあちゃんを魔女に見立てているケイちゃんの幼さを笑いながら、同時にその不安感に共鳴できるジュンペイの心のやわらかさは、作者のものでもあるだろう。
 これに対して「なぞのエスパー・チコマロン」は、かなり凝った作りの作品世界である。冬休み明けの三年一組の教室から物語は始まる。いつも無視されているカツトシが冬休み中インドネシアに行ってきたというので、みんなから質問攻めにあい、調子にのって話しているうち、見もしない怪物を見たことになってしまう。この時、教室になぞのエスパー・チコマロンが現れ、その呪文(じゅもん)のためカツトシの口から出る言葉はすべて「ガチャピノス」になってしまう。やがてチコマロンの導きで自らが作り上げた怪物ガチャピノスが本当にいる世界に迷い込むカツトシ。
 物語はこうしたややSF的な展開をたどりながら、僕らの世界を形づくっている言葉の内実を問う。言うまでもなく、これは作者自身にとって切実な問題であるだろう。そして、そうした切実さが物語の緊迫感に結びついている数少ない例と言えよう。
 このほか、最近活躍の目立つ斎藤洋の冒険ファンタジー「ネコにつばさのある国で」、また、少女たちの願いを見事な幻想世界に仕立てたファンタジー短編集「花ものがたり」(森下真理)が、このグレードの佳作として印象に残った。(藤田のぼる

本のリスト
三日間、ボクかしだします。(山末やすえ:作 みきゆきこ:絵 秋書房)
なぞのエスパー・チコマロン(川北亮司:作 長谷川芳一:絵 岩崎書店)
ネコにつばさがある国で(斎藤洋:作 勝又進:画 学習研究社)
花ものがたり(森下真理:作 狩野富貴子:絵 くもん出版)
テキストファイル化岩本 みづ穂