子どもの本を読む

徳島新聞 1989.12.29

           
         
        
         
         
         
    
    
 二つの“変身”の物語を読んだ。ニュージーランドの女流作家マーガレット・マーヒーの「めざめれば魔女」と、三田村信行の「ぼくが恐竜だったころ」の二冊である。似ているところもあれば、全然違うところもある。僕には両方が興味深かった。
「めざめれば魔女」はちょっと紹介が難しい。主人公は十四歳のローラ。父親は家を出てほかの女性と結婚し、母と弟と三人で暮らしている。
 ローラが朝から不吉な予感におそわれていたその日、弟のジャッコが町で見知らぬ男から手に奇妙なスタンプを押され、その夜からひん死の状態になる。これが何かしら超自然の力によるものであることを感じたローラは、学校で三年上級の男の子ソリーに助けを求める。ソリーが実は“魔女”であることをローラは見抜いていたのだ。
ジャッコを救うため、ローラはソリーの祖母の力を借りて魔女への変身を遂げるのだが、この変身のプロセスは実に生々しい。少女が大人の女になっていく時、時には体と心のつながり方を根元から組み替えていくほどの生みの苦しみがあるのかもしれない。
 だが僕にはローラをはじめとするこの作品の女性たちの存在感はやや圧倒的に過ぎて、むしろ自身の中の“魔女”と人間とをどう折り合いをつけて生きていくかで揺れるソリーの像にひかれた。
「ぼくが恐竜だったころ」は、こちらの方も狂気の天才学者、タイムマシン、恐竜の世界と、絵に書いたような道具立てである。主人公は恐竜マニアの中学生誠也。
 恐竜展で出会った大矢野博士にそそのかされ、誠也は彼の作ったタイムマシンに乗り、六千五百万年前の世界に旅立つ。自ら恐竜に変身し、恐竜絶滅の生き証人として、博士の学説を証明するために。テスケロサウルスとして過ごす期間の方が、生の充実感、解放感があるというあたり、作者の文明批評を感じるが、恐竜たちの擬人化にはやや無理がある。
 誠也は何度か過去と現在を行き来し、結局はタイムマシンは破壊され、博士も死ぬのだが、魔法が思い出として封じ込められるこの作品のありようは、現在からの自分に魔法を植え付けたローラの生き方とは対照的だ。日本の子どもたちにとって、魔法や変身はやはり非日常のことでしかないのだろうか。
 「わるくちのすきな女の子」(安房直子)は、魔法使いのおばあさんに鳥にされてしまう女の子の話。と書いてしまうとなにやら教訓話めくが、人間に戻るために金のカギを探す女の子の旅のモチーフは、決して安易な“反省”といったレベルではなく、自分自身との出会いを求めるプロセスと読める。
 「かばんの中のかば」(正岡慧子)は、楽しいカバンの“変身”の物語。ある日良平が学校から帰ると、家の中にカバがいた。何と、カバンから「ン」が出るとカバになるのだと言う。そのカバンは、単身赴任で出掛ける父親が、良平に託していったものだった。意外な展開の中で家族のきずなを考えさせる。
藤田のぼる

「本のリスト」
めざめれば魔女(マーガレット・マーヒー:作 清水真砂子:訳 岩波書店)
ぼくが恐竜だったころ(三田村信行:作 佐々木マキ:絵 ほるぷ出版)
わるくちのすきな女の子(安房直子:作 林静一:絵 ポプラ社)
かばんの中のかば(正岡慧子:作 渡辺有一:絵 あかね書房)
テキストファイル化秋山トモ子