子どもの本を読む


京都新聞 1990.07.22

           
         
         
         
         
         
         
    
    
 批評家にとって、次作が待ち遠しい作家というのが何人かいる。僕の場合、それは自分と同じ世代(いわゆる “団塊の世代” というやつだが)であることが多い。「ふるさとは、夏」の作者芝田勝茂、「走りぬけて、風」の伊沢由美子の場合、彼らが寡作であるだけに、ことに期待を込めて読んだ。
  「ふるさとは、夏」は、前作「夜の子どもたち」で、心理学的近未来SF風・伝奇ミステリーファンタジー(めちゃくちゃな造語だが)とでも言うべき作風を見せてくれた作者の、あえて同様に言うならば、民俗学的休暇物語風・社会派ロマンファンタジーとでもなるか。
 六年生のみち夫が、母親の外国旅行のために、夏休みの一ヵ月間父の郷里である北陸の田舎に預けられるという設定は、いわゆる「休暇物語」の枠組みにぴったり納まっている。みち夫の父は,紛争のため大学を中退したことなどから、生家とはほぼ隔絶状態にあり、みち夫も初めて訪れたのである。しかし、いとこの沙奈や伯父伯母たちは快く迎えてくれる。
 だが、みち夫を待っていたのは伯父一家だけではなかった。みち夫が村で最初に出会った奇妙な三人連れは、実は村にある三つの神社の“神様”たちで、この後も、豚ほども大きい猫の姿をしたジンミョーや忘れものの神様ブンガブンガキャーなど、みち夫は実にさまざまな神様たちと出くわすことになるこの村は、隣の市との合併問題で揺れており、合併反対派の若者たちは、村の伝統行事であるバンモチを復活させみち夫もこれに招かれる。
 ところがバンモチの最中のどこからか白羽の矢が飛んできて、この家の娘ヒスイは一晩神社ごもりをすることになり、しかもヒスイは介添役にみち夫を指名するのである。ここから村の人々や神々の物語が一気にみち夫自身と重なることになるのだが、伝承的な素材やキャラクターを、ここまで現代の物語に溶け込ませている作者の技に感嘆した。
 「走りぬけて、風」は対照的に東京の私鉄沿線の小さな駅の商店街が舞台である。
 時代の波は無論こうした所にも容赦なく押し寄せている。スーパーの進出が予定され一等が特注のサイクリング車という名物の福引も今年で終わり。主人公のユウは、この自転車を狙って何年もの間、一等がいつどのように出るかのデータを集めてきた。従って、今年このデータを生かせなければ終わりなのである
 この作品には、建て替えのため立ち退きを求められているユウの住むアパートの家族たちや、商店街の人々の物語が重ねられており、作品世界を厚みのあるものにしている。物語の最後、ユウとは逆の立場で福引を生きがいとしてきた商店街会長が、惜しくも一等を外し、引っ越していくユウに、若い頃からの宝物であるフランス製自転車のペダルを贈るシーンは感動的だ。
 “アンチ伝統” を旨としてきた団塊の世代が今、前の世代から何を受け継ぎ、後の世代に何を渡していくのかを考え始めている、と言えば牽強付会(けんきょうふかい)に過ぎるだろうか。
 「かなとだいこん」(彦一彦)は、祖母や母の漬物作りを手伝うかなの姿を通して、「ゲンジボタルと生きる」(国松俊英)は、自然保護を訴えた一人の男の生きざまを通して、残すべきものの価値と、それを残そうとする意思の美しさに迫っている。(藤田のぼる
 本のリスト
 ふるさとは夏(芝田勝茂:作 小林敏也:画 福音館書店)
 走りぬけて、風(伊沢由美子:作 佐野真隆:画 講談社)
 かなとだいこん(彦一彦:絵文 福武書店)
 ゲンジボタルと生きる(国松俊英:作 こさかしげる:画 くもん出版)
 テキストファイル化安田夏菜