|
児童文学に動物を登場させるパターンには大きくいって、動物の世界そのものを描くものと動物の世界を借りて何かを描き出すものとの二つがあるように思う。後者の例として、子どもの持っているアニミズムが作品世界を構築する場合がある。すなわち子どもの想像力を支えにして動物と人間との境目を取り払ってしまうのだ。古典的な例としては、「クマのプーさん」などがこれに当たるだろう。 「ゾウイルカラスがやってくる」(山口タオ)に登場する“動物”は、子どもたちが図工の時間に粘土で作ったものだ。まず、しんすけが大好きなアフリカ象の頭を作ったら粘土がなくなってしまい、隣のあきおの作っているイルカを体のかわりにくっつけた。そこでできた“ゾウイルカ”の話をしているうち、今度は足がほしくなり、みかの作っているカラスを合体させ頭はゾウ体はイルカでカラスの羽があるという“ゾウイルカラス”ができ上がる。 ところが、翌朝のテレビで、巨大化したゾウイルカラスが町で暴れているニュースが流れ、三人は自分たちで作ったゾウイルカラスと対決することになる。こうしたアイデア自体必ずしも奇想天外というほどではないが、子どもの想像力が秘めるエネルギーといったものをこの作品はよくとらえており、何とも豪快な物語に仕上げている。 「マンホールからこんにちは」(いとうひろし)が抱える想像力の領域は、これとはまた異質なものだ。 おつかいの帰り道“ぼく”が二丁目の角を曲がると道路の真中に電信柱が立っているのが見える。近づいてみるとそれはマンホールから首を出しているきりんだった。物語はここから一転「きりんのはなし」になる、大草原に住んでいたきりんがなぜ下水に迷い込んだのかと言う話が語られるのだ。 同様にして、家に帰り着くまでの間に今度はマンホールから顔を出したマンモスやかっぱに出合いその都度、「マンモスのはなし」「かっぱのはなし」という展開になるのである。あえて理屈っぽく言えば僕らの世界が抱えている時間的空間的連鎖を断ち切った一瞬の画面を見せてくれるとでも言ったらいいか。「ゾウイルカラス」の方は子どもを引っ張っていく想像力。「マンホール」の方は子どもをふと立ち止まらせる想像力とでもまとめたらいいか。 以上二作が想像力の所産としての動物像だとすれば、次の二作はいずれも実在としての動物像(この場合は猫)を丁寧に描くことによってそれと共存すべき人間たちのありように迫っている。 「もしもし、ネコをかってます」(本木洋子)は、猫の嫌いな父親が単身赴任の間に猫を飼うことになった母と娘たちの物語。父親の不在という、いわばマイナスの状況が猫がいるというプラスの状態をセットになっていることから起こるドラマが共感を呼ぶ 「ちびねこチョビ」(角野栄子)は、やはり飼い猫の話ながら、こちらは猫の視点から物語が作られている。黒猫のメメに三匹の子猫が生まれ一番下のチョビのいたずらにメメは振り回される。このチョビが物語の終わりには母親になるのだが、チョビのいたずら、メメの心配の両方に寄り添うことのできる作者の心情が、作品に深みを与えている。(藤田のぼる) 「本のリスト」 ゾウイルカラスがやってくる(山口タオ:作 田丸芳枝:絵 国土社) マンホールからこんにちは(いとうひろし:作絵 福武書店) もしもし、ネコをかってます(本木洋子:作 今井弓子:絵 童心社) ちびねこチョビ(角野栄子:作 垂石真子:絵 あかね書房)
テキストファイル化安田夏菜
|
|