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日本の児童文学作品と外国(この場合主には欧米の、ということになるが)の作品 との違いはいろいろあり、簡単に優劣をつけられるものではないが、「舞台の広さ」と「素材の広がり」という点では明らかに日本の側が引けをとっている。この背景には書き手自身の体験の狭さという問題があり、例えば外国の作家の経歴を見ると、ジャーナリスト、技術者、軍人など、日本の児童文学作家ではあまりお目にかからないケースを見ることが少なくない。従って、どうしても日本の児童文学では本格的な冒険ものなどは出にくい、ということになる。 今回紹介する二冊は、その点では珍しいといってもいい「舞台の広さ」(単に空間的な意味だけではなく)を感じさせる作品であり、少年読者たちを引きつけ得る魅力を備えている。 『中国・17C 動乱に生きた少女』 しかたしん・作、徳田秀雄・絵(ポプラ社、一四〇〇円) 舞台は17世紀の中国、清の中国全土への支配が進みつつも明の残党がまだ抵抗を続けていた時代である。 となればヒーローは鄭成功、日本人の母を持ち、近松の「国性爺合戦」の主人公ともなった英傑である。彼は福建省の厦門(アモイ)島を根拠地に清に戦いを挑むが、物語は鄭成功のグループがこの厦門島を奪うところから、清との決戦に敗れるまでを描く。成功の幼なじみで副官の施郎、元は日本の武士で軍師役の陳元輝、海賊上がりの水軍の将鴻旭、兵站(へいたん)を支える張進や工官の澄正などの群像が、鴻旭の妹の紅妹(彼女自身、銃の名手で鉄砲隊を指揮するというヒロインだが)の視点から語られるが、張進の仕事を通じて戦争の経済的な側面が見えてきたり、澄正が日本の戦法を研究して鉄砲隊を組織するなどから、当時の国際関係が垣間見えたりと物語世界のスケールの大きさは際立っている。 鄭成功自体への作者の評価の揺れが作品の奥行きになっている一方、物語の熱を冷ましてしまっている感があるが、「国際派」の作者の面目躍如の痛快な作品である。 『カチーナの石』 戸井十月・作、中村鈴子・絵(講談社、一四〇〇円) こちらは時代は現代、舞台はアメリカ南西部。十歳のサトルは、夏休みに仕事の父親についてロサンゼルスに住む祖父を訪ねる。サトルが祖父と会うのは赤ん坊の時以来、つまりは初対面だ。ところが、サトルを預けた父親は一泊だけして仕事に行ってしまう。元医者でアメリカに来てから妻をなくし、一人暮らしの祖父ゼンジローは、車にキャンプの道具をつめこんで旅に出かけるという。行き先は千八百キロも離れたホピ族の村。最初はろくに口もきかなかったサトルも、必要に迫られて祖父の手助けをするようになり、ホピ族の一家やメキシコからの密入国の兄弟らと出会う中で、大きな心の成長を遂げる。 日常的となった外国旅行を背景にこうしたプロットの物語は今や珍しくないが、ルポライターとして世界を旅する作者だけに、車の旅のリアリティーはさすがで、初めての児童文学作品とは思えないほど主人公の少年の心の動きが生き生きと描かれている。 (東京新聞1997.10.26) テキストファイル化山本京子 |
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