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児童文学の特徴の一つとして、メッセージ性の強さという点をあげることができると思うが、しかし今まさにそのところで児童文学は大苦戦を強いられている。それがどんなメッセージであれ、今の子どもたちは大人からの呼びかけにはうさんくささを感じており、建前と実態がこれほどかけはなれた社会状況の中では、それも当然と言わざるを得ない。今回紹介する二冊の本は、生きぬくことの大切さ、生きることの意味を現代の子どもたちに正面から問いかけようとしており、それが作者の強いモチーフによって確かに支えられている。そういう意味では児童文学本来の「呼びかける力」を帯びることに成功している稀有(けう)な例と言えるだろう。 『ぼくのじんせい シゲルの場合』(丘修三・作、立花尚之介・絵 ポプラ社、一〇〇〇円) 主人公のシゲルは、養護学校の小学部六年生。体を動かす機能がだんだん弱くなっていく進行性の病気で、今は一人で寝返りをうつこともできない。物語は、亡くなった中学部三年生のことから語り出される。その青木さんは同じ病気だったこともあり、シゲルにとっては兄のような存在だった。「生きるって、なんだろうな」という青木さんが残したつぶやきは、そのままシゲルにとっての切実な問いである。こうした設定の主人公の作品は実はけっこうあるのだが、シゲルの造型がいわゆる「難病もの」の枠には決して収まっていない。発病前にはシゲルを兄として慕っていたはずの妹に介助をさせようとする時の「駆け引き」にはリアリティーがあるし、母親の養護学校の先生たちの描かれ方も、なかなかにシビアである。そして、それだけに、シゲルが自分に残された時間を前向きに生きようと決意するプロセスは心に迫る。『ぼくのお姉さん』など障害者を等身大に描いた作品で定評を得てきた作者が、ともすれば情緒に流されやすいテーマに切り込んだ貴重な一冊である。 『半分のさつまいも』(海老名香葉子・作、千葉督太郎・絵 くもん出版、一三〇〇円) 著者は故林三平の夫人で、東京大空襲で両親や兄弟を亡くした体験をつづった『うしろの正面だあれ』はアニメ映画にもなり、話題を呼んだ。この作品は、その続編とも言えるもので、十一歳で家族を失ったかよ子が、その後親戚などを転々とし、竿師(さおし)だった生家の贔屓(ひいき)の一人だった三代目・三遊亭金馬に引き取られる十七歳までが描かれている。主人公にとっては、むしろ戦争が終わってからの日々がまさに闘いだったわけだが、この作品はありがちな「苦労」の押しつけにはなっていない。ドイツの作家ケストナーは優れた児童文学の書き手の資格として子ども時代の記憶の鮮明さをあげたが、その点でこの作品はまさに合格で、その時々の主人公の心に沿った表現が臨場感を増している。「孤児」という境遇のなかでも明るさを失わない主人公の姿は、『赤毛のアン』のアンを思い出させるものがあり、特に少女の読者たちの共感を呼ぶだろう。(ふじた・のぼる=児童文学評論家。) 東京新聞 1998.01.25 テキストファイル化あらいあきら |
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