子どもの本

藤田のぼる

           
         
         
         
         
         
         
    
 日本の夏は「戦争」を考える季節でもある。終戦からすでに半世紀以上、戦争体験を持つ人はもはや少数派で、五十代後半の先生でも幼児の記憶しかないわけだから、子どもたちにとっては太平洋戦争は完全に「歴史」の時代のできごとになったといえるだろう。ただ、そのことを必ずしもマイナスの要因ととらえる必要はなく、残留孤児や従軍慰安婦の問題など、長い時間の経過の中でようやくあぶり出されてきた問題も少なくない。こうした負の遺産を、われわれがどのような構えで子どもたちに伝えていくのか、これはきわめて難しい問題を含んでいる。それは戦争責任の問題であるとともに、「戦後責任」の問題、つまりはわれわれが形作っている今の日本をどうとらえるのかという、実にまるごとの問題だと思うのだ。そんなことを考える中で、かなりの手ごたえを感じさせるニ冊の本と出合った。

『霧の流れる川』
 岡田依世子・作、荒井良二・絵
(講談社、一四〇〇円)
 舞台は東北地方の山村で、後書きで秋田の旧花岡鉱山に近い村と説明されている。戦争末期、強制連行された中国人たちが蜂起(ほうき)、多くの犠牲者を出した「花岡事件」の舞台である。一九六五年生まれの作者の出身地近くでもあるらしい。小学校一年生のカナと中学校一年の保の兄妹が中心で、夏休みの物語という点も含め、作品の枠組みは松谷みよ子の『ふたりのイーダ』を思い出させる。
 一学期の終業式の日、カナはバス停で不思議な少年と出会う。ひどくやせて、かたことの日本語しか話せないこの少年は、やがて保の前にも姿を現し、彼が花岡事件の犠牲者の一人であるらしいことが次第に明かされていく。五十年の時空を超えて被害者の少年と村の子どもが出会うこの物語は、祖父たちが犯した罪を、後に続く者がどのように受けとめるべきかという問いに満ち満ちている。すなわち、この作品が確かに戦争から五十年後の物語になりえていることを評価しつつ、同時に戦争ゆえの狂気という非日常性がやや観念的に浮かび上がるだけで、祖父たちの戦中の行動と今の自分のありようとが十全に結びついていかないもどかしさも感じざるを得なかった。

『八月十五日ぼくはナイフをすてた』
 井出孫六・作
(ポプラ社、一二〇〇円)
 こちらはノンフィクション、というか著者自身の体験談である。著者は昭和十九年、戦局がいよいよ厳しさを増す中で中学校受験を迎えた。
 筆記試験はなく、内申書と口頭試験のみ。兄の一人が思想犯として拘引されている彼が、この口頭試問の「傾向と対策」に苦慮するところから作品は語り出される。リベラルな伝統を持つ信州という風土の中で、しかし一年ごとに軍国主義化、形式主義化を増していく学校の姿。勤労動員に明け暮れる中で、戦局の厳しさと神国日本への信仰との間で揺れる心情。
 もっとも多感な時代をこうした時間の中で過ごした著者の日々は、そうした「特殊性」をこえて今の若い読者の日々と十分に重なる問題性とリアリティーを備えており、このあたりはさすがというしかない。戦争体験の風化がいわれるが、体験との向き合方こそが要であることをあらためて感じさせてくれる好著である。
(東京新聞 1998.7.26.)
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