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児童文学では、子どもに次いでといっても過言ではないほど、老人というのがストーリーの上で重要な役割を占める作品が少なくない。その中でも、主人公の祖父や祖母という形での登場が一般的だろう。もっとも今の子どもたちの祖父母の年代はもはや昭和生まれが普通だろうから、一般にイメージされる「おじいさん」「おばあさん」とは大分様相が変わってきているが、それにしても彼らの過ごした子ども時代と、現在の子どもたちの生活環境の違いは歴然としている。 そうした隔絶した「子ども時代」を持つ祖父、祖母と今の子どもがどのような時間を共有できるのか、また子どもたちが祖父、祖母からなにかを受け継ぐことができるのか、今回はいずれも中級のグレードで、そうしたテーマを抱えた二つの作品に出合った。 『水の扉』(橋本香折・作、橋本淳子・絵、ひくまの出版、1998) ばあちゃんの葬儀の日、親せきの人たちでにぎわうばあちゃんの家の中で、屈折した思いを抱えている敬輔。一人暮しでしばらく寝たきりだったばあちゃんを、普段から訪ねていたのは敬輔くらいで、他の親せきやいとこたちの顔を見ることはほとんどなかった。葬儀の場を離れた敬輔の足は、自然に近くの川に向かう。そこはばあちゃんの思い出の場所で、かつで土手の両側は見事な桜並木だったという。そこで敬輔は、不思議な男(河童<かっぱ>)と出合い、その河童の導きでばあちゃんが子どもだった時代にさかのぼる。ばあちゃんを一人で死なせてしまったことに罪悪感を感じていた敬輔が、この体験を通じてばあちゃんからのメッセージをしっかりと受けとめるラストが印象的だ。 両親や祖父母の子ども時代へタイムトラベルというプロットは珍しくないが、案内役の河童が一筋縄でいかないキャラクターで、作品全体をひきしめている。 『ぼくの大イワナ』(最上一平・作、渡辺洋二・絵、文研出版、1998) 釣りがなによりも好きな直道の釣りの腕前は、半年ほど前になくなったじいちゃんから教わったもので、じいちゃんは近在にきこえた名人だった。釣りの帰り道、雨に降られた直道は、雨宿りの公園でホームレスらしい一人の男と出会う。直道の持っていた釣り道具から会話が始まり、子どものころ五十センチもある大イワナを釣ったことがあるその男に直道は引き込まれる。 その後、会えば口をきくようになった直道に、男は自分の持っている唯一の本だというパール・バックの「大地」を朗読して聞かせる。直道が祖父から受け継いだのは釣りの腕前だけでなく。人間への曇りのない見方であることを感じさせる。 最後に公園から追い出されて去っていこうとする男に、「大地」の二巻を渡そうとする直道の姿が印象的。重いテーマを抱えた作品だが、この作者らしい独特のペーソスを感じさせる文章で、決して優等生ではない直道の心の動きが素直に心に伝わってくる。(東京新聞1998.09.27) 藤田のぼる テキストファイル化山本実千代 |
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